王政復古の大号令
王政復古の大号令
午後になって土佐藩兵半大隊が来て、唐御門に整列した。大砲も持ち込まれた。やがて土佐藩から会津藩に対して、御所の警備を土佐に引き継ぐよう命令書が手渡された。会津藩は呆然(ぼうぜん)として、なんらすとこがなかった。
大政を奉還したので、幕府と会津藩の役目も終わったという認識があった。ただし、それは会議で正式に決まったわけではない。会津はここで、抵抗すべきであった。
やがて長州兵が到着し、御所は薩摩、長州、土佐、芸州兵で固められた。
御所には倒幕派の公家衆と薩摩、尾張、越前、安芸の各藩主が入った。
慶喜と容保と京都所司代の松平定敬(さだあき)は病気を理由に欠席した。容保と定敬は実の兄弟である。三人が一致結束して京都の政治に当たったので「一会桑」と呼ばれた。一は一橋慶喜、会は会津藩主松平容保、桑は桑名藩主松平定敬を指す。
政権をになってきた三人の欠席は、西郷の思う壺でだった。
土佐の山内容堂も不穏な空気を察知して姿を見せなかった。
岩倉具視が全員の前で王政復古の大号令を発し、幕府派の公家を役職から外した。容堂の姿もなかったので、あっという間に幕府の廃止が決まった。そして有栖川宮を総裁に仁和寺宮、山階宮、中山、嵯峨、中御門の五卿と薩摩、尾張、越前、安芸、土佐の五藩主が議定となり、さらに岩倉五人の公卿と有力藩から参与を選び、これらの人々で当面、国政を担当することを申し合わせた。
夕刻になっ土佐の山内容堂が姿をみせた。容堂はこのままでは西郷の意のままになると判断した。
「なぜ慶喜をよばぬのだ。第一、本日の仰々しさはなんだ。徳川家の功績は大だ。公家のみで政治を行うことはできぬ。幼い天子を擁して権力を盗むつもりか」
容堂は西郷をにらみつけ、幕府も温めた土佐の折衷案を主張した。土佐は肝心の龍馬を欠いており、これは大きな痛手だった。そのとき、
「幼い天子とは何事ぞ」
岩倉具視はやおら容堂を一喝した。容堂は機先を制せられた。
休憩にはいるや、西郷は土佐の後藤象二郎に、
「短刀一本あれば、片付くことだ」
と脅した。たとえ土佐藩主であろうが、反対ならば殺すという暴言だった。
これで土佐は口を封じられた。こうして慶喜の領地の返上も容保、定敬の解任もすべてきまった。
慶喜の戦略は音を立てて崩れた。この会議で慶喜は完全に、政治の場から引き摺り落とされた。
参考図書『幕臣たとの誤算』星亮一