鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦い
1868年1月2日、将軍徳川慶喜をおしたてた幕府軍1萬5千は、「討薩除奸」(薩摩を討ち、朝廷から悪人を取り除く)を旗印に、大坂城を進発した。幕府軍の中心になったのは、会津と桑名の藩兵であり、会津藩先鋒の部隊は鳥羽街道を、桑名藩先鋒の部隊は伏見街道を進んで、京都へ迫ろうとしたのである。
これらの人々にとって、前の年以来の薩摩のやり方には、我慢できないものがあった。将軍慶喜が、異常な決意をもって大政奉還をしたというのに、薩摩はそれだけでは承知しない。岩倉具視と組んで「真に忠誠の心があるならば、内大臣の官を辞し領地を返還せよ」とせまる。
「これでは、幕府をつぶしてしまえというのと同じではないか。彼らは、自分の利益のために無理難題をおしつけているのだ。」という憤りをたかめていたのである。さらに江戸市中などでは、薩摩藩の者が中心になって、さかんに騒ぎを起こしている。これも癪の種であった。
一方、このころの慶喜の立場は、必ずしも弱いものではなかった。薩摩や岩倉の動きに反発して、慶喜に同情す声がが強かったし、「これからは諸侯の衆議によって、公明正大に政治を進めることが大切だし、その会議の首班には慶喜がふさわしい」という公議政体論が広まってもいたのである。
そのような情勢の中で慶喜は、1月1日に、次のような内容の「討薩の表」をつくった。
「王政復古以来のことは、すべて薩摩の奸臣どもの陰謀であり、各地の争乱・強盗の類もまた、同じ者の仕業である。従って、この奸臣どもの引き渡しを下命してほしい。承知していただけないときは、止むなく誅戮(ちゅうりく)を加えるものである」
こうして翌2日、出兵の命令を下したのであった。
鳥羽・伏見の戦い その結末
戦いは、1月3日にはじまつた。このとき、迎え撃つ薩長らの兵力は、幕府軍の三分の一に満たないほどであつた。しかし、彼らの持つ小銃・大砲などの近代兵器は、兵力ではるかに勝る幕府軍を圧倒した。大久保利通の表現(日記)によれば、「大石を高い山の上から落としたような勢いで」連戦連勝を重ねたのである。
また4日には、仁和寺宮嘉彰親王が征夷大将軍に補せられ、錦旗(錦の御旗)を授けられた。これによって慶喜は、明らかに敵とみなされることになったのである。薩長らの軍が、勇躍したことはいうまでもない。
さらに彼らには、一般民衆の支援もあった。例えば戦場となった鳥羽村では、薩軍が民家を焼き打ちにしたにもかかわらず、通りすぎる部隊を拝んでいたという。さらに、糧食を用意し汁をこしらえ酒を供するなどして接待するほどでもあった。長年の幕政への恨みが、このような形で表わされたのである。
こうして幕府軍は惨敗した。慶喜も6日夜、ひそかに軍艦開陽丸に乗り移って江戸に帰ってしまったため、幕府軍の戦闘意欲、一気にしぼんでしまった。
「われらは、徳川二百年の天かを、わずか三日でうしなうのか」となげいた者も多かったという。
ひるがえる錦の御旗
鳥羽・伏見の戦いで大勝利をおさめた朝廷は、七日には慶喜追討令をだし、各地に鎮撫総督を派遣して、諸大名の服従を進めさせた。さらに二月にはいると、有栖川宮熾仁親王を、東海・東山・北陸三道の鎮撫を統率する東征総督に補し、江戸に向けて出発させた。
このとき東征軍鼓笛隊が勇ましく打ち鳴らしたのが、「都風流トコトンヤレ節」であった。
宮さま宮さま
お馬の前にひらひらするのは
なんじゃいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレトンヤレナ
この警戒でわかりやすく、口ずさみやすい歌は、新しい世の到来を告げるものでもあるかのように、たちまち大評判になった。
しかも、東征軍は錦の御旗を掲げて進軍している。そこには、「自分たちには、天皇の命を受けて正義の戦いに向かうのだ」という意気込みや勢いがあふれていた。
これにそむくことは、よほどの勇気と決断がなければできることではない。案の定、錦の御旗の進ところ、その沿道の藩は続々と討幕への参加を申し入れてきた。
民衆も進んでその進撃をたすけ、あるいは大きな期待をこめて見送った。その結果、東征軍の意気込みがいっそう高まったことはいうまでもない。
こうして東海道を進んだ東征軍の本隊は、1868年3月には駿府(現在の静岡市)に到着し、この月の15日を期して江戸城総攻撃をする旨の軍議をかためることになった。
※ 「風流トコトンヤレ節」という歌を使うとか、江戸の町での騒動とか、戦術的に西軍が東軍より勝っていたように思われます。幕府としても、260年という年月を政権を担っていたわけですから、自負心もあったのでしょうが、コリコリ制度に固まっていたとか、やはり錦の御旗の前では、どうしようもない。