鬼・鬼火
鬼・鬼火
斉明天皇の時代、『日本書紀』に不思議な出来事が記されている。
斉明七年(六六一)、朝鮮半島で百済が新羅と唐の連合軍のために滅ぼされようとしたので、女帝は老体をおして同盟国百済救済のために出征を決意する。
その年の一月に難波を出航し、九州に向かうが、七月二四にちに行幸先の朝倉宮(福岡県朝倉市)で崩じる。
八月一日に皇太子・中大兄皇子が天皇の遺体に付き添って海岸に近い磐瀬宮(今の福岡市三宅付近)に還ったが、その折、異変が起きる。
この夕べ、付近の朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て、その喪儀のさまを臨み見ていたので、人々は皆怪しんだ、とある。
実はこの殯(モガリ 今の通夜)の時だけでなく異変は前にも起きていた。
斉明天皇の死の二カ月ほど前の五月九日に、天皇は磐瀬宮から朝倉宮に遷ったのだが、宮をつくるので、その地にあった朝倉社の木を伐り払ったところ、神の怒りを買い、宮殿が壊されたとあり、その上、宮の中に鬼火が現れ、これによって大舎人や宮人などが多く病死したとある。
この神とか鬼火、そして朝倉山の大笠を着た鬼というのは一体何なのだろうか。
注釈によりと、これらは雷神で、旧五月頃は梅雨明けで雷が多く発生する季節なので、落雷して宮殿が壊されたか、あるいは朝倉山の鬼も山頂で稲光がきらめいたことをいうのであろうとする。
今、「朝倉山」という特定の山はなく、福岡県朝倉市の長安寺という集落に朝闇神社(あさくらじんじゃ)があり、その東の降葉山(さがはやま)あたりが朝倉山ではないかといわれている。
中大兄皇子(後の天智天皇)と白村江の戦い ~鬼・鬼火が出たときの社会情勢~
白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)
天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。
新羅征討進言
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。
遣唐使
白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。
蝦夷・粛慎討伐
斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、越国守安倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。
百済の滅亡
660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。
その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。
この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という。
斉明天皇(皇極天皇のこと、中大兄皇子の母 大海皇子母)
661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)斉明天皇が崩御した。
斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。
大化の改新の立役者
645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。
即位して天智天皇になった
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図って白村江の戦いを起こすも敗戦した。
百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)斉明天皇が崩御した。
その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。
663年8月28日(天智天皇2年7月20日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方で、667年4月17日(天智天皇6年3月19日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、668年2月20日(天智天皇7年1月3日)、ようやく即位した。