都の百鬼夜行
都の百鬼夜行
節分の晩に「百鬼夜行」というものがあり、それは古い道具が大変に年を重ねたゆえに、自然の摂理として化物となって歩くのだとしている。
また、小野宮(藤原実資)が節分の夜に宮中に出仕したところ、その牛車の前を百鬼夜行があったという。
この説話は平安、鎌倉時代の説話集に類話があり、『付喪神記』別本が設けている場面(=関白が妖怪の群れに遭遇するが、真言の陀羅尼の護符が火炎を発して退散させたとの話)にも通じるものである。
『付喪神記』崇福寺本は十五世紀末期から十六世紀初期の作で、「非情成仏絵」ともいう。
また文中に百鬼夜行」とある。別本は十九世紀の摸本が十本以上伝わり、人気を博していた。
両者は、構成はほぼ同じながら本文に違いが多く、その先後関係には議論があ。
ともに妖怪を「妖物ばけもの」と書き表しており、その画中詞には滑稽味がある。
なお、別本には狐などの動物妖怪も登場しており、都の船岡山の奥の「変化大明神」の祭礼で妖怪の行列が繰り広げられる。
妖怪の出現を行進するように描き出すのは定番であり、そこには同時期に横行していた風流の仮装行列が反映している。
百鬼夜行絵巻
京都の大徳寺真珠庵に蔵されるもので、真珠庵本という。
十六世紀作とみなされ、これこそがお伽草子の時代に作られた妖怪絵巻の最たるものである。
絵には、つくも神や動物変化のありとあらゆるものが跳梁し、また鬼も登場してる。まさに史上初の妖怪の大集合、異形の大行進なのである。巧みな構図、鮮やかな色彩での奇抜な造形は目を奪ってやまない。
詞書(本文)はない。欠落したのではなく、当初からなかつたのである。
開巻、妖怪が夜になって行列を組んで繰り出す。巻末には真っ赤な球体が描かれていて、それに気付いた連中は逃げ戻っている。
これからして絵巻は明らかに出来事の始終を表している。
妖怪説話や他の妖怪絵巻に照らしてみると、ストーリー性が感得できる。
近代以前は怪異や霊威の話題に満ちており、真珠庵本は妖怪の出没を説明づけたものと捉えるべきである。
いずれにしろ、ことばの記載がないゆえに、かえって直後や後世の絵師たちの想像力を刺激した。
だからこそ、転写本や改編本が極めて多い。
付喪神(つくもがみ)とは「百鬼夜行神」
『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの古い説話集にみられた百鬼夜行が室町期には絵巻化され、近世、数多くの類似作品を生み出していった。
『付喪神絵巻』も同類といえる。室町期の徳江本『伊勢物語註』に、付喪神(つくもがみ)とは「百鬼夜行神を云う也。又は人の家にある道具・何でもあれ、百年になれば反化して人をなやます也」とあるように(第六十三段)、後世、『付喪神絵巻』とみまがうキャラクターが随所に描かれる『百鬼夜行絵巻』も現れる(真田宝物館所蔵)。さらにストーリー性をもたない『百鬼夜行絵巻』も現れ、一種の化物尽くし絵が派生する。
そうした中で古代中世の妖怪たちは、おどろおどろしく様々な、ユーモアのある妖怪画の解説としての役割を帯びるようになってくる。