妖怪の定義とは
妖怪の定義
「妖怪」とはなにか、文字通りに理解すれば、ふしぎな、神秘的な、奇妙な、薄気味悪い、といった形容詞がつくような現象や存在を意味する。しかし、このままでは「妖怪」とはない。こうした出来事・現象を「超自然的なもの」の介入によって生じたとみなすとき、それは「妖怪」となる。これが、「妖怪」についてもっとも広い定義である。
こうした怪異・妖怪現象にたいして、人間は大別して二つの態度で臨んできた。すなわち、それを人間にとってあるいは自分たちにとって、好ましい怪異・妖怪現象として説明する場合と、好ましくない怪異・妖怪現象として説明する場合である。
同じような現象であっても、このような対立的な解釈が出てくる背景には、神秘的なものを、好ましいと判断する解釈装置と好ましくないと判断する解釈装置の双方が存在しているからである。人々の信仰世界あるいはコスモロジーは、こうした二つの解釈装置・体系がセットになって構築されているわけである。
こうした吉凶・善悪を判断する解釈の装置のうち、前者を祭祀する神々(制御された神霊)による解釈の装置、後者を祭祀されない神々(正義ょされていない神霊)による解釈の装置というふうに理解しておくことにする。そして、狭義の怪異・妖怪現象もしくは存在とは、祭祀していない神々によって引き起こされた、どちらかといえば望ましくない怪異・妖怪現象のことなのである。
妖怪文化の領域をのぞましくない現象として設定したうえで、その中身を、①出来事(現象)としての妖怪(妖怪・現象)、②存在としての妖怪(妖怪・存在)、③造形としての妖怪(妖怪・造形)の三つの領域に分けることで、妖怪という語が意味する範囲を確定できる。
出来事・現象としての妖怪
妖怪の第一の領域は、「出来事」もしくは「現象」としての妖怪である。これは、五感を通じて把握される、不思議な、奇妙な、神秘的な、薄気味悪い、という思いを抱かせる出来事・現象を意味し、そしてそのような出来事・現象が生起する原因として「望ましくない超自然的なもの」の介入を想起することによって、それは「妖怪」となる。
理論的にいえば、不思議な姿かたちをした生き物の目撃、不思議な音、薄気味悪い臭い、不思議なものとの接触、奇妙な味がするもの、の五つのカテゴリーにわけることができるが、文化としての妖怪現象の発現形態は、圧倒的に視覚や聴覚によって把握された妖怪現象が多く、またその場合でも複合的な発現をとる。
歴史的にみれば、時代をさかのぼればさかのぼるほど、科学的・合理的思考が未発達であったがために、さまざまな奇妙な不思議な現象を「妖怪現象」とみなす機会が多かった、と想像される。
そのような怪異・妖怪現象を、体験者が語る伝える過程で、その土地の共通体験となり、さらにそのような怪異・妖怪現象に「古杣」とか「天狗倒し」といった「名付け」が行われることがあった、ということである。怪異・妖怪体験の共同化・共同幻想化である。その集積としての妖怪文化は形成されているわけである。
存在としての妖怪
妖怪の第二の意味領域は、「存在」としての妖怪である。人間を取り巻く環境には、様々な存在物がある。そうした存在物のなかに、超自然的なもの、神秘的なものが関与している存在物がある、と考えられてきた。「天狗」や「狸」も、その種の神秘的な存在、生き物である。
妖怪を考えるうえで、その前提として了解しておかなければならないのは、あらゆるものには「霊魂」が宿っていると考えるアミニズム的観念である。日本人の心にはこうしたアニミズム的観念が深く浸透している。
この霊魂は人格化されるので、人間と同様に喜怒哀楽の感情をもっているとみなされた。人間にとっては、その怒りは天変地異や疫病などさまざまな災厄をもたらし、その喜びは豊作や豊魚をもたらす。古代の日本人は、こうした霊魂の状態を、「荒れる」「和む」というふうに表現した。荒れる魂を和む魂に帰る方法が、「祭祀」であった。そのような祭りを「魂鎮め」あいは「鎮魂」といった。
これに対して、「荒れている魂」は、祭祀されていない、あるいは祭祀できない霊魂であり、制御から解き放された魂である。それは人間にとってこのましい状態ではなく、それが引き起こすさまざまな神秘的現象が、望ましくない怪異・妖怪現象となる。