妖怪研究の退潮と妖怪ブーム ~☆彡
妖怪研究の退潮と妖怪ブーム
昭和三一(一九五六)に柳田國男の『妖怪談義』が刊行されたのち、あたかも妖怪の問題は柳田國男によって解決済みとされたかのように、新たな妖怪論が民俗学の中から現れることはなくなり、妖怪に関する報告が民俗学の雑誌に載ることさえ少なくっていった。妖怪研究は完全に停滞期に入ってしまったのである。
ふたたび妖怪が注目をあつめるようになるのは一九七〇年代にはいったからであるが、そのきっかけとなったのは、大衆文化の分野でおこった妖怪ブームであった。
昭和四三年(一九六八)、講談社の漫画雑誌『週刊少年マガジン』に連載されていた水木しげるの「墓場の鬼太郎」が「ゲゲゲの鬼太郎」のタイトルでテレビアニメ化されたことにより、一大妖怪ブームが訪れる。現代の妖怪観は、このときに形成されたといっていい。
つまり水木しげるの描く妖怪こそが、現代日本人がイメージする妖怪そのものなのである。
新たな妖怪論の登場
新たな妖怪論が登場し、それによって妖怪研究が活況を呈しはじめるのは、1980年代のことである。
その中心となったのが、小松和彦(1947~)と宮田登(1936~2000)の2人の民俗学者であった。
小松和彦は昭和57年(1982)の『憑依信仰論』ななかで、柳田の「零落説」に異議を唱え、神が妖怪へと変容するばかりではなく、妖怪が神へと変容することもあることを指摘したうえで、神と妖怪を超自然的存在のそれぞれのプラスとマイナスの側面に対応したものとしてとらえ、祭祀の有無によってそれらを作業仮説的に弁別することを提唱した。
いっぽう宮田登は、昭和60年(1985)の『妖怪の民俗学』で、それまで村落共同体的な社会に特有のものと考えられてきた妖怪が、都市空間のなにも息づいていることを明らかにした。
宮田もまた、神と妖怪を超自然的存在の二つの側面としてとらえ、それが妖怪としてあらわれるのは、人間と自然との調和が崩れたときであると考えた。
そして、都市はその開発の過程において自然との相克を抱え込むことになり、そうした場所が異界の発生する「魔所」となるとした。
辻や橋といった「境界」もまた、そのような異界の発生しやすい非日常的な場所であり、とりわけ若い女性がそこに触媒のように介在することによって、怪異が引き起こされることを宮田は指摘している。
人間研究としての「妖怪学」
八〇年代から九〇年代にかけて妖怪研究が広がりをみせるなか、小松和彦は平成六年の『妖怪学新考』で、妖怪研究とはすなわち人間研究であり、人間そのものを知るためと同様に、総合的・学際的な視点による研究が必要不可欠であると主張し、そうした諸分野の妖怪研究の成果を共有し総合していくための場としての「妖怪学」を提唱した。
こうした学際的な「妖怪学」の登場は、妖怪研究を民俗学の呪縛から解放し、新たな可能性を一気に拡大することになった。
実は現在でも、民俗学の妖怪研究は低調なままなのであるが、近年の妖怪研究の活況は、さまざまな人文諸科学の分野で斬新な研究成果があらわれはじめたことによるものである。
その状況をもたらしたのは、小松和彦が提唱し、そして実践した「妖怪学」であった。