妖怪錦絵と幽霊画の盛隆
妖怪錦絵と幽霊画の盛隆
妖怪画・妖怪文化の任期は江戸時代後期移行徐々に高まり、幕末から明治にかけて頂点を迎えた。
その人気の中心にあったのが、錦絵の妖怪である。
細密な多色刷りの錦絵は、風俗・風景、美人、芝居、役者、事件などあらゆる事象を描いて人気を博したが、その題材のなかには妖怪たちも含まれていた。
売れれば柳の下のドジョウを狙って次々に同様の商品を売りに出すのが商売の常で、妖怪錦絵は、百鬼夜行絵巻や妖怪図鑑などの妖怪画を参考にしつつも、芝居のなかの妖怪や古今東西の伝説や昔話のなかの妖怪など、さまざまなものに画題を求めて、多数の八日画が生み出された。
しかも、葛飾北斎、歌川国芳、月岡芳年、河鍋暁斎といった著名な絵師たちも、妖怪画の製作に動員されて、多くの優れた作品を残している。
妖怪錦絵の特徴 ~ワイド版~
妖怪錦絵の特徴として指摘したいのは、三枚続やさらには六枚続などワイド版の作品が多いことである。
通常の錦絵はB4サイズ1枚であるが、これを三枚とか六枚とつなげることで、絵の迫力を各段に高めることが出来た。
たとえば、天保の改革わ風刺しているこで知られている国芳の「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図」は、三枚続の作品であり、六枚続の作品としては、秀斎の「後鳥羽法皇の夢中にあらわれる妖怪図」があげられる。
妖怪錦絵は明治になってもしきりに制作されたが、文明開化という時代の風潮や、石版印刷や銅板印刷、さらには活版印刷の技術の浸透によって、木版印刷は次第に人気を失っていった。
妖怪錦絵とともに注目したいのは、この頃、幽霊画の人気も高まったことである。
幽霊画の多くは肉筆の軸絵として制作され、幽霊の怨念の深さつまり恐ろしさが強調されたいた。
これは幕末に大いに人気を博した芝居の『東海道四谷怪談』や『番町皿屋敷』に登場する怖ろしい怨霊系の幽霊の影響をうけてのことであった。
幽霊画の人気
妖怪錦絵は明治になってもしきりに制作されたが、文明開化という時代の風潮や、石版印刷や銅板印刷、さらには活版印刷の技術の浸透によって、木版印刷は次第に人気を失っていった。
妖怪錦絵とともに注目したいのは、この頃、幽霊画の人気も高まったことである。
幽霊画の多くは肉筆の軸絵として制作され、幽霊の怨念の深さつまり恐ろしさが協調されたいた。
これは幕末に大いに人気を博した芝居の『東海道四谷怪談』や『番町皿屋敷』に登場する怖ろしい怨霊系の幽霊の影響をうけてのことであった。