歴史と伝説の間
歴史と伝説の間
「民話」ということばの歴史は意外と新しく、英語の「Folk Tales」(民間説話)の訳語あるいは略語として、昭和の初め頃つかわれるようになつた。まだ百年は経っていない。その後、劇作家の木下順二が中心になった、民話を通して日本人の心を知るという「民話運動」から、1950年大に民話ブームが起こる(この民話ブームの影響の先にアニメ「まんが日本昔ばなし」がでてくる)。
このブームの影響で「民話」という語は広くつかわれるようになったが、「民話」ということばの指す範囲は「民間に伝承された口伝の話」と広く、正確さにかける。そのため民族学では「民話」という語の使用をさけていた時期もあった。
「民話」をもう少し細かく、民族学の分類に当てはめると、唄やことわざ、名前のつけ方といった、ことばの技術を対象とする「口承文芸」の一分野である民間説話ということになる。
口承文芸の分野においては、そうした「民話」を、話の性質から「昔話」「伝説」「世間話」に分けて考えている。妖怪との関係を整理するのに必要なだけ、解説しよう。
「昔話」は、「昔々」や「あるところ」と宣言するように、昔話の舞台となる時間と場所は架空のものであり、登場人物も多く固有名詞を持たない「おじいさん」や「おばあさん」で、実在の人物・団体とは関係なく設定されている。昔話は聴きても語り手も、この物語はフィクションであることを自覚しいている説話である。絵本やアニメの「民話」のイメージにいちばん近いといえる。
そして「伝説」には、『聖剣伝説』や『銀河英雄伝説』のような長大な叙情詩(サーガ)のイメージや、『いきなりー黄金伝説。』や『ガッツ伝説』のような偉業・逸話のイメージでつかわれることが多いが、民俗学ではもっとも身近な、山や川の地形の由来や巨石や大木のいわれ、祠やお寺・神社や年中行事や祭礼の由来といった、具体的な事物の歴史を説明する説話として受け取られている。
伝説は歴史上のある特定の一時点において、ある特定の場所で一回だけ起きた出来事の結果を現在の事物と結びつける。例えば「ここ(場所)に義経一行が来た時(時点)、弁慶が岩を持ち上げた(出来事)。その手形が残る(結果)のがこの弁慶岩(事物)だ」というように。
伝説は「目に見える事物を証拠に挙げて歴史を装う説話」なのである。
そして「世間話」には両者とは違い、話し手と聴き手の生きる<いま・ここ>と連続する時と場所でおきた事件の話である。説話に登場する場所も、人も、話し手と聴き手になじみのものであり、ニュースソースは「友達の友達」であったりもする。
世間話では、身近で起きたとされる珍しい、もしくは怪異な事件がはなされる。日常のありきたりの事柄(つまり、ご近所のゴシップ)ばかりでなく、新奇な珍事遺聞が気のまれるので、妖怪や幽霊の出現、狐や狸に化かされるといった怪異は、世間話の題材として多くはなされることとなる。世間話は「都市伝説」や「噂」までも含む、もっとも「妖怪」と相性のよい口伝えの説話といえる。
昔話のなかの妖怪たち
昔話に登場する妖怪は、聴き手が説明なしに理解できる存在ばかりである。
昔話の妖怪は、異類婚姻の昔話を除けば、話の筋の上で主人公が打ち破るべき障害として現れる場合がほとんどである。
そこでは「恐ろしい化物」が必要なのであって、個性は求められていない。
したがって、昔にはその性質や容姿につして語りてがくどくどと説明する必要のない鬼や天狗が多く現れ、語りを無用に長くしてしまうような個性豊かな妖怪は登場しないのである。
例外は「化物問答」などの化物たちだ。彼らは古杵や古槌やどの器物の変化であったり、足が三本の化け鶏や馬の頭骸骨の化けたものであったりする。
その容姿も「のっぺらぼうの一本足」(杵)、「口のとがったくるくる目」(鶏)などと表現される。
しかしこの話も、化け物が「サイチクリンノケイサンゾク」や「トウザンバコツ」と名乗るのを「西竹林の鶏三足」「東山馬骨」とよみ解いて正体をあばいて退治する「謎解き」に興味の中心があり、化け物の外見の説明は付け足しである。
むかし話にでてくる妖怪たちは、話の筋の運びに奉仕するために現れる、個性の薄い存在といえる。