蛇はナガムシてす。 ~安珍と清姫~
蛇の説話
蛇は、近代の分類意識からすれば爬虫類にぞくするが、ナガムシの異名があるように、古来、日本ではムシの一種として位置づけられてきた。御伽草子『虫の歌合』でも蛙とともに、歌を詠んでいる。
人間が蛇になる例は、近世怪談集が流行るようになって増えてくるようだ。
それ以前で鎌倉時代の『沙石集』所収の「妄執によりて、女、蛇と成る事」が代表的な一話である(巻七-二)。
鎌倉の若宮八幡の稚児に恋をした娘が病気になったので、見かねた親が頼んで娘のもとに通ってもらうことにする。そかし次第に疎遠になっていくと、娘は再び病がちになり、ついに死んでしまう。
しばらくて狂死した稚児の棺には蛇がまとわりつき、娘のほうの骨は小さな蛇になったり、蛇になりかけたりしていた。
話末に「執着愛念ホドニ恐ルベキ事ナシ」と評価されているように、愛執の念が女の骨を蛇にしたのだった。
これと似た話は『道成寺縁起』だろう。はやく『法華験談』や『今昔物語集』に類話がみられる。
僧の名前を安珍とするのは『元亨釈書 げんこうしゃくしょ』が初見だが、女の名が清姫となるのは近世にくだる。
この説話では自分の許から逃げた僧を追う女の肉体が次第に蛇に代わって行く様子が描かれている。
相手を思って死ぬことを〈思い死に〉というが、思い死にされると相手は取りつかれて不幸な目に遭う。
これが実体化すると、蛇の姿になると考えられていたのではないか。
これが男の場合になると、蛇になる事例は稀である。だから蛇身は女身と切ってもきれないものだということであろう。
蛇と女の結びつきは、籠女成仏の故事のように仏教的な考えを反映するものの、それ以上に裾野が広いものと思われる。
執着、執念、とらわれることの戒めかな?
執着と、蛇の関係が今一つ、分かりません。
山を歩いていると、蛇は足元になく、上から降ってくるそうです。
寒がりだから、木の上にいるらしいです。
そんなところにいきませんけど、
「バサ」って、降ってくる、いや、落ちて来るらしいです。
あーーー、怖いですね。