中央政界に進出した三好氏・松永氏
中央政界に進出した三好氏・松永氏
三好長慶・松永久秀は、いずれも下克上によって、16世紀の中頃に室町幕府の中枢にすわり、勢いを振るった人物である。
このうち三好氏は、もともと阿波国(徳島県)を本拠に、管領細川氏の代官を務める国人でもあった。
しかし20歳を過ぎたころから、武力で近隣に勢いを広げ、摂津(大阪府)からさらに京都に進出して、主君の細川晴元を近江(滋賀県)に追放し、幕政を牛耳るようになった。当時、貿易の中心であった堺をおさえていたことも、彼の勢力のもとになっていた。その長慶が死んだ後、三好氏の実権を握ったのが、松永久秀である。彼の素性ははっきりしていない。しかし三好氏に対する振る舞いは、無道を極めるものであった。
例えば、彼は、長慶の後を継いだ義継をないがしろにし、その妻を奪って自分の妾にするようなことをしている。長慶の弟安宅冬康を讒言によって殺したし、長慶やその長男義興の死も、久秀の暗殺によるものではないかと噂されたほどなのである。さらに、久秀をきらった将軍義輝が、これを取り除こうとしていることがわかると、機先を制して将軍を襲い焼死させるようなこともでしている。このように見てくると松永久秀は、こわだった下克上ぶりを示した人物なのだということができる。
◎連歌の名手・三好長慶
三好長慶は、戦国大名としては教養が高くて、連歌の名手としても知られ、近衛摂関家の歌会に招かれるほどであった。1562年、河内(大阪府)の飯盛城で連歌の会を催していたときのこと、客の1人が、「薄に交じる芦の一むら」と詠んだところ、上の句をつける者がいなかった。ちょうどその時、そっと入室した長慶の家来が、「弟君の義賢様が、合戦で討ち死にした」という悲報を耳打ちした。黙ってうなずいた長慶は、「古沼の浅方より野となりて」とつけた後、客たちに向かい、これから弔い合戦にでること、危険のないうちに早く都へ帰るようになど告げたという。その落着ついた態度や心配りに、一同感じ入ったという逸話が残されている。