五榜の掲示・人民告諭
人民告諭
告諭とは「諭し教える」という意味である。明治政府は、人民告諭を題して、天皇のありがたさ、智異などを国民に知らせるように努めた。というのも当時の国民の多くは、天皇のことなど知ってはいなかったのである。将軍や大名の偉さは知っていても、この国に天皇がいることさえ知らない者が少なくなかった。ところが、新政府はこれからの政治を天皇を中心にして行おうとしている。そこで、天皇のことをなるべくやさしく詳しく国民に教えようとしたのである。告諭にはさまざまなものがあるが、1868年3月に長崎でだされたのもには、次のようなことが記されていた。
「この日本には天照皇大神宮様からお継ぎあそばされたところの天子様というのがあって、これが昔から変わったことのない日本のご主人様である。(中略)このたび徳川慶喜が御大政を預かっていたが、『なかなか私にはできません』といって天子様にお返し申した。ところがそれは大ウソで、自分が日本国王になろうとする策略であつた。それが失敗して昔どあり天子様が政治を執ることになった」
五榜の掲示
五箇条の御誓文が発表された翌日の15日、五枚の立て札が旧幕府の高札に取り換えられてたてられた。これを五榜の掲示(ごぼう の けいじ)と呼んでいる。
このうちの第一札から第三札は、盗みや殺人の禁止、一揆などの禁止、キリスト教の禁止で、幕府時代のものと全く同じであった。第四札は外国人への暴行の禁止、第五札は土民の本国脱走の禁止であり、庶民に対して新政府の考えていたことは、五箇条の御誓文とは裏腹に、あまり近代的ではなかった。