五箇条の御成文
五箇条の御誓文
由利公正の案とその修正
1886年(慶応4)1月、ちょうど戊辰戦争が始まったころのことである。できたばかりの新しい政府には、しなければならないことがいくらでもあった。そのため、連日のように会議が開かれていた。
そのある日の夜、新政府で財政の仕事にたずさわっていた由利公正は、興奮さめやらた面持ちで机に向かっていた。
実はその日、彼は政府の中心人物であった岩倉具視に、
「今、政府がししているのは、目先のことばかりです。それでいいでしょうか。あちらで戦いが起こったから、そこへかけつける。こちらで問題が起こったから、その解決に手をつけるというようなことばかりしているのでは、天下はとうていおさまっていきません。天下の人々が、今いちばん望んでいるのは、新しい政府がどんな考えで政治をしていこうとしているのか、それを明らかにすることです。今こそ、新しい政治の大方針を、天下に示すべきだと思います。」
と申し出ていた。
岩倉の答えは、「由利君、君のいうことはよくわかる。われわれも、考えていたことなのだ。しかし、もう明け方が近い。今日のところは、これで会議を終わり、また明日話あうことにしようじゃないか」ということだったのだが、その明日になれば、「由利君、君の意見は?」と聞かれるに違いない。じっとしていられなかった彼は、さっそく、自分の考えをまとめようとしていたのである。
このときに彼がかきとめたのは、次のようなものであった。
一、庶民志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを欲す。
(国民はすべて、それぞれの才能をふるって、目的が実現できるようにし、生きる張り合いをなくしたり、退屈したりすることのないようにさせる)
一、士民心を一にして、盛んに経綸を行ふを要す。
(武士であった者も、農民や町人も、心を合わせて国をおさめる道を考えていくことが大切である)
一、智識を世界に求め、広く皇基を振起すべし。
(外国のすぐれた学問や技術をさかんに取入、わが国の勢いを高め広めていくようにしなければいけない)
一、貢士期限を以て賢才に譲るべし。
(貢士とは、諸藩から選ばれた代表のこと。その貢士は、期限を決めて採用し、期限がきたら他の才能ある人とかえるようにしなければならない)
一、万機公論に決し、私に論ずるなかれ。
(すべてのことは会議を開いて相談し合って決め、一部の者だけでこっそり決めるようなことをしてはならない。)
由利公正はこの案を、福岡孝弟(ふくおかたかちか)に見せた。福岡は土佐藩の出身で、後藤象二郎とともに、徳川将軍による大政奉還を実現するために活躍した人物である。
この福岡は、由利が示した案の中で気になる点を修正し、「列侯会議をおこし・・・・」に始まる継のような案につくり変えた。
一、列侯会議を興し、万機公論に決すべし。
一、官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まらしむるを欲す。
一、上下心を一にし、盛に経綸を行ふべし。
一、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
一、徴士期限を以て賢才に譲るべし。
というのも、彼の出身である土佐藩は、藩主であった山内容堂をはじめとして、公武合体派が多かった。福岡もまた、おなじような考えをもっている。それなのに由利案には、諸大名の扱い方がごとにも出ていない。まるで、大名は政治から手を引けといっているようにも見える。
「これではいけない。やはり日本では、江戸幕府のころから続いた大名を大事にしている人は、今でもたくさんいるのだから・・・・・」と考えたからなのである。
ところが、この案はさらに木戸孝允によって修正された。いうまでもなく木戸は長州藩のの出身で、新政府の中では、最も力をもっている人物の一人であった。
彼は、由利・福岡のつくった案を尊重しながらも、彼自身の考え方も入れて、「よくない」とおもわれたことろをけずり、「必要だ」と思う言葉をつけ加えたりしながら、いわゆる「五箇条の御誓文」にしあげたのである。
中でも、「列侯会議をおこし」という言葉をやめて、「広く会議をおこし」というように変えている。これは福岡のような、それまでの大名を重視しようとする考えを排除しようとしたことの表れであった。
五箇条の御誓文
1886年3月14日
討幕軍が東へ東へと進み、いよいよ15日には江戸城総攻撃をしようと計画していたその前日、京都では、御所の紫宸殿に、親王・公卿・大名らが次々に集まってきたいた。そして正午。一同が威儀を正して待つところに、明治天皇が進み出て玉座につかれた。
このとき、天皇は17歳。その天皇が神前でちかわれたこと、それが五箇条の御誓文である。この五箇条の御誓文である。この五箇条の御誓文は由利公正・福岡孝弟らの案をもとにして、木戸孝允が書き上げたものであった。しかも由利らは、この新しい政治の大方針を天皇が諸大名と相談して決めるというやり方で発表しようとしたのに対して木戸孝允は、公卿や大名を率いた天皇が祖先の神々の前で誓うという形で発表することに改めた。
ここにも、天皇の存在をことさらにアピールし、「新しい政治の中心は、天皇である」と意識づけようとした木戸の考えが、よく表れている。
1、これからの政治については、会議を開いて多くの人々の意見を聞き、多数の意見に従って決めて行こう。
2、上の者も下の者も、みんな心を1つにして国の政治を進めて行こう
3、政府の役人も武士も農民や町人も、それぞれの才能をふるって目的がとげられるようにし、生きる張り合いをなくしたり、退屈したりすることのないようにすることが大切である。
4、これまでのよくないならわしをやめ、正しい道理をもとにして、さまざまなことをおこなうようにしよう
5、外国のすぐれた学問や技術をさかんに取入、わが国の勢いを高めひろめていくようにしよう。
この五箇条は、どれをとっても、江戸時代の政治の考え方と大きく違っている。
渦巻く不平不満
新しい政治の大方針としての五箇条の御誓文がだされ、一方では戊辰戦争での官軍の勝利は確定的になってきている。よそ目には、新政府の事業は、円滑にすすんでいるかに見えた。
1896年(明治2)の春、新政府の中心にたっていた大久保利通は、岩倉具視にあてて、次のような内容の手紙を送っている。
「近頃、人々が訴えごとをしてくるのを聞いていると、「王政復古になってありがたかった」という言葉はほとんどない。それよりも「新しい政治になってからは、幕府の政治のころより悪い世の中になった」というものもあるほどだ。そのうえ、近頃は、水害が各地でおこっている。このままにしておくと、どんな騒ぎがおこめかもしれない。」
その一方で大久保は、木戸孝允から、つぎのような手紙をもらってもいる。
「今、貧しい人々は、一日もくらしていけないような有様だ。このままでは、一揆がおこるのも目の前のことだろう。まことに王政復古というのも、ただ名だけのことであり、残念至極だ」
いずれも、当時の政治への反発や社会の姿に、心をなやましているものである。