相楽総三と赤報隊
相楽総三と赤報隊
東征軍本体が勇躍して進撃していたころ、別動隊として活躍する人々もいた。東山道を東へ進んだ赤報隊も、そのひとつである。
その首領は、先に西郷隆盛の命を受けて、江戸市中の混乱に一役かった相楽総三(さがら そうぞう)であった。
このときも総三は、西郷の命をうけたのだという。
「本隊に先駆けて東山道を進み、幕府領にあっては、すべて本年の年貢は半減すると宣言せよ」というのが、その命令であったというのである。
当時にあって年貢の半減は、まさに政治の大変革をいみするものであった。
それを聞くものは、新政府への感謝と期待をいっそう高めることになろう。
それだけに総三に率いられた者たちは、近江から美濃さらに下諏訪へと進みながら、勇んでその命を果たそうとした。
しかし、財政に苦しむ新政府には、年貢半減を実行する意志はなかった。
それに赤報隊員の中には、沿道の諸藩を脅したり、民衆から金銀を略奪する者もすくなくなかったという。
そのためもあったのだろう、赤報隊は東山道総督府から偽官軍とされ、相楽総三ら八人は、この年の三月に下諏訪で斬罪の刑をうけることになった。
維新にまつわる悲劇の一つであるが、このような例は決して少なくない。