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歴史ネタ帖

安寿と厨子王丸

安寿と厨子王丸 (あんじゅ と ずしおうまる)

 

前(さき)の奥羽五十六郡の太守、岩城判官正氏の一族は、讒言(ざんげん。虚偽の悪行をでっち上げて人を陥れる事)によって筑紫に流された。

本国に残され落魄した正氏の妻と、その2人の子供――姉の安寿姫と弟の厨子王は、正氏を訪ね求めて越後の直江津にたどり着いたとき、人買いの山岡太夫の手にかかり、妻は佐渡二郎の手で佐渡に、姉弟は宮崎という人買いの手で丹後由良湊の長者である山椒太夫にそれぞれ売り渡された。

山椒大夫のもとで姉弟は酷使された。弟は1日に3荷の柴を刈れ、姉は1日に3荷の潮汲みをしろ、間があれば藻塩を焼く手伝いをしろ、糸を紡げ、と追い使われ、弟は柴刈り払う鎌を怨み、姉は潮汲む桶に泣いた。

ある日、安寿は厨子王に勧めて密かに逃れさせようとし、罰として額に焼け火箸を当てられた。しかし肌身離さぬ守りの地蔵尊のおかげで痕が付かなかった。

そして姉弟はついに、再会を約して逃亡を図った。姉を残して都へと行くのをためらう厨子王に、安寿姫は強く勧めて、弟が去った後、自身は山椒館の近くの沼に身を投げて亡くなった

その亡骸は村人により丁重に葬られた。時に永保2年正月16日、安寿16歳、厨子王13歳であったという。

一方、厨子王は丹後の国分寺に逃げ込んで寺僧に助けられ、京都七条朱雀の権現堂に送られた。さらにまたに摂津の天王寺に寄食するうちに梅津某の養子となり、ついに一家没落の経緯を朝廷に奏上した。

結果、判官正氏の罪が赦された上に旧国を与えられ、讒言者の領地は没収されて厨子王に下賜された。

 

安寿姫の霊はその後も母と弟を守護し、岩城家再興の機運にめぐまれた厨子王は、丹後・越後・佐渡のなかで若干の土地を得たいと願い出てこれを許された。

厨子王は、領主となった丹後に行き、かつて匿ってくれた国分寺の僧侶に謝し、山椒大夫とその子三郎とを鋸挽きの刑に処し、また越後で山岡太夫を討ち取った。

報恩と復讐を果たした厨子王は、生き別れた母の行方を求めて佐渡にたずね歩くと、片辺鹿野浦で老いた瞽女(ごぜ)が鳥を追う唄をうたっているのに巡り会った。

 

「安寿恋しやホゥヤレホ。厨子王恋しやホゥヤレホ」。厨子王は、この歌を聞いてこれぞ母と知り、駆け寄りすがりついた。うれし涙に、盲いた母の眼は奇(くす)しくも開き、母子は再び抱き合ったという。

【別記】

数年前に、直江津港にいったことがります。思ったよりこじんまりした港でした。そして、いわきの海にも十数年前にいったことがあります。太平洋側と日本海側とのちがいがあり雰囲気が違う。ここが、安寿と厨子王の舞台になったところでした。

この物語は、古代にあった人買いとか、逃散する農民とかの事実も背景にあるようです。森鴎外の山椒大夫もこの話を題材にしていたとか。身近なところに歴史のネタがあるものです。

 

弘前藩の「丹後日和」

津軽地方の山岳信仰の対象である岩木山には「山椒大夫」(安寿と厨子王丸)に登場する安寿が祀られている。

説教節では安寿は拷問によって非業の死を遂げるが、彼女を酷使し殺害した山椒大夫・山岡太夫らはいずれも丹後国の者であったため、弘前藩領に丹後の人間が入ると安寿の怨霊によって災害が起こって人々を苦しめるとされた。江戸時代末期になってさえ、弘前藩では丹後の住人を忌避した。これは「丹後日和」と呼ばれた。

 

天明8年 (1788)7月、江戸幕府巡見使の一員として弘前藩内に入った古川古松軒は、7月15日の日記に「丹後日和」のことを記録している

これによると、丹後の人が弘前藩内に入ると天候が荒れ災いが生ずるとされ、故に丹後の出身者は領内に一人もいない、というものだった。また同じ著述により、幕府巡見使の江戸出発に際して、幕府に対し津軽藩から一行の中に丹後出身者がいるか否かの照会があり、万一いた場合は構成員から除外して欲しいとの要望が出され、該当の人は一行から外されたと記録されている。

古松軒自身は、丹後日和を妄説であると述べているが、津軽藩から要請された幕府はそれを拒否しなかった。これは藩の公式の記録にも残っている。

弘前藩が自らの苛政を隠蔽し、領民の不満を丹後人に向けて逸らせようとする策であったとする説がある

 

巡見使(じゅんけんし)とは、江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使があった。

 

古川古松軒(ふるかわこしょうけん)

 岡田藩に生まれ、中年期より日本各地を旅し、『西遊雑記』『東遊雑記』等の紀行を著し、また絵図を作製した。晩年、江戸幕府に命じられて江戸の近郊の地誌『四神地名録』を編纂した。

その紀行文は、『奥の細道』など故人の足跡を辿り、名所を歌に詠むような従来の文学志向的な旅行から一線を画し、旅先で自ら実見、体感したままを記述、学問的に考察しようとする点に特色がある。「上方・中国筋」を基準としてその土地の不便性、後進性の程度を批評している点、林子平『三国通覧図説』など他書の記述を多く批判している点、時に経済、軍事学的考察を加えている点なども特徴といえる。

 

安寿と厨子王の物語ゆかりの地 (いわき市)

森鴎外の小説「山椒大夫」で全国各地に広がった、姉の安寿と弟の厨子王、そしてお母さんの旅の姿の像が昭和49年に建立されました。場所は、いわき市金山町朝日1、車でいわき勿来ICから約16分です。また、JR勿来駅から徒歩12分です。

 

 

弁天山(福島市)

安寿と厨子王の住家の伝説

福島市の中心部に位置し、桜の名所としても親しまれている弁天山。その中央付近の椿舘は、「安寿と厨子王」の父といわれる平正氏(岩城判官政氏)の館があったと伝えられてます。明治・大正の文豪・森鴎外が、この物語を題材にした名作「山椒大夫」の中でも、2人の姉弟は、現在の福島市にある「岩代(いわしろ)信夫郡(しのぶごおり)」に住家があったとされています。

 山椒大夫は、もともと民間に伝承されていてた伝説が説教浄瑠璃などになり全国に広まったものしを小説化したものです。筑紫(九州)に左遷された父を捜して旅に出た姉弟が、越後国(新潟県)で人買いにだまされて母、乳母と離れ離れになり、丹後(京都府)の山椒大夫の下で奴隷として労働を強いられる。その後、厨子王は姉の安寿の死を乗り越え、母との再会を果たす。

 椿舘が、奥羽56郡の大守岩城判官政氏の居城との説は江戸時代の天保年間に編纂された「信達一統志」などに記されており、城の土塁のような地形も残っている。鴎外も山椒大夫を発表する前に福島市を訪れて構想を練ったといわれるが、遺構などは見つかっておらず、実在した人物かは分からない。

 弁天山は現在、展望台が整備され福島市街地を一望できるスポットになっている。

 

 

安寿と厨子王の供養塔(新潟県上越市)

 現在の上越市はかつて「直江津」と呼ばれ、越後国の国府がおかれた港町である。この地が、説教節で有名な「山椒大夫」の最初の悲劇の舞台となる。

 無罪の罪で筑紫に流された夫の岩城判官を追って信夫郡(福島県)を離れた夫人は、安寿と厨子王の二人の子供を伴い、姥竹と共に直江津にたどり着く。その夜、応化の橋の下で一夜を過ごそうとした4人であったが、そこに通りがかった人買いの山岡太夫の甘言に乗って屋敷に泊めてもらい、さらに翌朝「親不知子不知があるから陸路ではなく、海路で京へ上るとよい」と小舟に乗せられる。しかしそれは罠であり、母と姥竹を乗せた舟は佐渡へ、安寿と厨子王を乗せた船は丹後へ、それぞれ人買いに売られ離れ離れになるのでした。悲憤した姥竹は舟から身を投げて死ぬが、哀れに思った土地の者が塔を建てて供養したといいます。

 さらに丹後の山椒大夫に売られた安寿は責め殺されたため、姥竹のそばに供養塔がならべられたのでした。そして山椒大夫の許から逃げ、後に出世して佐渡の母を助け出した厨子王が、この直江津に足を運んだことから、土地の者はさらにこの供養塔を大切にしたということです。(現在供養塔は3基ああるが、伝承から考ええると、左から厨子王、安寿・姥竹のものと推測するのが妥当かもしれません)

 昭和62年(1987)に関川改修のために移設された供養塔は、現在は琴平神社の一角にあります。応化の橋は今はなく、この供養塔は直江津にあある「山椒大夫」の数少ない遺跡となっています。

 

 琴平神社   新潟県上越市中央3丁目11-21  

        直江津駅から徒歩30分

 

応化の橋

現在の直江津橋の付近に架けられていた橋で、上杉謙信がこの橋の通行料を取ったと記録されており、その後高田藩となった時に松平忠輝の命によつて破却されました。

 

 

安寿と厨子王(宮津市由良地内)

舞鶴から丹後由良方面にある「山椒大夫屋敷跡」があるそうです。

また、安寿塚や安寿と厨子王の像もあるようです。

 

一つの話が、色々な繋がりがでてくるのでした。

 

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