閉じる
  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫
閉じる

歴史ネタ帖

大久保利通・西郷隆盛・伊藤博文・大隈重信・板垣退助・福沢諭吉

 

大久保利通 ~富国強兵を進めた維新の指導者~

大久保利通・・・・岩倉団長とともに欧米に出かけて本当によかった。条約改正では恥かいたが、欧米の進んだ制度や産業を見学できた。これを日本で生かそう。藩閥せいじなどと、うだうだいう連中は何もわかっていない。今は強権を使って富国強兵をすすめなければならん。

〇大久保利通のプロフィール

薩摩藩出身で、西郷隆盛とともに倒幕運動の中心になる。維新後は政府の実験をにぎり、富国強兵の制作を進めた。

※大久保利通が富国強兵・殖産興業のために進めた政策は、紡績・製糸などの官営模範工場をつくった。

大久保利通は近代工業を育てるため、官営模範工場を各地につくった。

〇大久保利通が生きた時代

1866       薩長同盟成立

1868-69    明治維新スタート

            戊辰戦争

1869       体制奉還

1871       廃藩置県

           岩倉使節団欧米へ

1873       岩倉使節団帰国

1878       大久保利通暗殺される

大久保利通の最後

チキショーー。オレも道半ばで殺されるのか。ここ20年ほどの間、井伊大老や坂本龍馬君はじめ何人も暗殺された。何でオレまで。どうもオレは同郷の西郷より人気がないようだ。

 

 

西郷隆盛 ~鹿児島で散った維新の功労者~

西郷・・・・新しい日本をつくるため、幕府と戦っていたころがオイドンの性にあっている。勝海舟さんと直談判して江戸城を無血開城させたのを思い出す。いつのまにか、大久保との仲もわるくなってしまった。

 

オイドンは、士族の連中を見捨てることはできん。勝算はないが、政府と戦ってみるほかないでごわす。

〇西郷隆盛のプロフィール

 薩摩藩の下級武士であったが、倒幕運動で活躍し、維新の中心人物に。1877年、鹿児島の士族らにおされて西南戦争を起こす。

※西郷隆盛を中心とする西南戦争がしずめられたのち、反政府運動は、言論による運動が進められました。

 西南戦争ののち、反政府運動は言論によって展開されていった。

〇西郷隆盛が生きた時代

1866        薩長同盟成立

1868~69    戊辰戦争

1873        徴兵令実施

            西郷隆盛、征韓論で敗れ政府を去る

1877        西南戦争、西郷隆盛が自害する

〇自決直前の西郷に決死の単独インタビュー成功

西郷・・・やはり、近代兵器にはかなわん。オイドンの頭が古いのかもな。士族を救う方法もまちがえた。今、振り返ると士族の不満のはけ口として、征韓論など主張したことも誤りだったな。もう、この辺りでいいだろう。

 上野公園にある西郷像

 

 

伊藤博文 ~トントン出世のあげく暗殺された~

伊藤博文

私の第一の顔。尊王攘夷運動の青年活動家さ。

私の第二の顔。大久保利通にかわって明治政府の実権をにぎった権力者さ。じゃまな大隈は追い出したし。

私の第三の顔。初代の内閣総理大臣さ。古くさい太政官制を廃止して、近代的な内閣制度をつくったんだ。

〇伊藤博文プロフィール

長州藩出身、明治維新から政府の重要ポストにつき、初代の内閣総理大臣になった。

※伊藤博文が憲法草案の作成で、ドイツ(プロセイン)の憲法を参考にしたのはなぜか

 それは、君主権の強い憲法だったからです。

  天皇主権の憲法をつくるには、ドイツ(プロセイン)の憲法がモデルになった。

〇伊藤博文

1857年   伊藤博文、吉田松陰の松下村塾に学ぶ

1881年   大隈重信を政府から追い出し、伊藤、政府最高指導者に

1882年   伊藤、ヨーロッパで憲法を学ぶ

1885年   伊藤、初代の内閣総理大臣に就任

1889年   大日本帝国憲法発布

1900年   伊藤、立憲政友会をつくる

1909年   伊藤、暗殺される

伊藤の第四の顔

立憲政友会の総裁さ。いつのまに征討が、好きになったかだって、そんなこと聞くなよ。

伊藤の第五の顔

初代の韓国統監さ。韓国の人には恨まれているだろうな。だれか、命をねらっているのではないか。

 

 

大隈重信 ~自由民権運動の一方の雄であったが、、、。~

記者A

例の北海道開拓使の施設払い下げ事件で、政府がマスコミからたたかれたことでしょう。おえら方はこれを「大隈の画策」と見たらしいですよ。事実はわかりませんけど。大隈さんは追放されたけど、国会の開設が約束されたのだから、結局は、自由民権運動の勝利なんでしょうね。

記者B

先生こそ、自由民権運動のシンボルだ。我々は、自由党のような過激派ではない。

〇大隈重信のプロフィール

 もともと政府の実力者。その後政府から追放され、立憲改進党を結成。のち総理大臣に。

※1881年に大隈重信が政府から追放されたのは、どんなことを主張していたからか、それは、国会の早期開設です。

  政府は、大隈重信を追放し、10年後の国会開設を約束した。

〇大隈重信が生きたのはこんな時代

   明治維新

1874年    板垣退助ら、民撰議院設立の建白書を政府に提出

1881年    板垣ら、自由党をつくる。

          大隈重信、政府を去る

1882年    大隈ら、立憲改進党をつくる

1898年    大隈・板垣、初の政党内閣をつくる

〇政治を見続けてきた古老政治家の回想

もしかすると、立憲改進党の結成が彼の頂点だったかもしれんな。実は彼はその後も政治の中心にいたんだよ。総理大臣には2回もなっている。最初の時は、あの板垣退助と政党内閣をつくった。すぐに崩壊したけどな。次は第一次世界大戦がはじまったころ。中国に二十一カ条の要求をおしつけたのは大隈内閣じゃよ。

 

 

 板垣退助  ~自由民権運動に火をつけた男~

相原尚褧(しょうけい)・・・・オレはあいつを襲撃した男さ。「板垣死すとも自由は死せず」と言ったかって?オレの耳には聞えなかったよ。でもな、その後のあいつの言動を見ると、襲うまでもなかったかな。板垣がいようがいまいが、自由はしなないさ。

板垣・・・・なぜ、政府から金をもらって外国旅行へ出かけたかって。いや、それは、あの、海外のこともしらなければ、議会政治は、、、。

 

板垣退助のプロフィール

征韓論をめぐる政争に敗れて政府を去り、民撰議院設立の建白書を提出。国会の開設が決まると自由党を結成し、党首になる。

※ 板垣退助らの民撰議院設立の建白書の提出をきっかけに始まった運動は、国民の政治参加です。

  自由民権運動は、議会の開設による国民の政治参加をめざしたのです。

〇板垣退助が生きた時代

 1873年  板垣退助、征韓論に敗れ政府を去る

 1874年  板垣ら、民撰議院設立の建白書を政府に提出

 1881年  板垣ら、自由党をつくる

 1882年  大隈重信ら、立憲改正進党をつくる

 1898年  大隈・板垣、初の政党内閣をつくる

板垣退助・・・・やっと議会が開かれた。これもみんなわたし、いや、自由民権運動の成果のたまものだ。さあ、議会で政府を追及するぞ。それに挑戦進出も求めるぞ。忘れたのか、私はもともと征韓論者だったんだ。

※ 自由党・・・・1881年、板垣退助を党首として結成された政党。フランス流の民権思想をめざす。

「吾死スルトモ自由ハ死セン」

この事件と板垣の発言については、当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都嶼吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されています。 当時の政府当局にとって、自由党の活動は好ましいものでなく、その周辺には絶えず警察官が監視を行っていました。岡本の報告書は、この時の板垣の遊説にあたっての動向をまとめたものです。

これによると、板垣が先に会場を退出し、ちょうど玄関にたどり着いた頃、玄関前が騒然となり、さらに何かが地上に倒れる音が聞こえてきました。岡本は何事かと思い現場に駆けつけたところ、板垣が起き上がり出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」との発言をしたと報告をしています。 岡本の報告書は、『公文別録・板垣退助遭害一件・明治十五年・第一巻・明治十五年』という簿冊の中に綴じられています。この簿冊の中には、事件に関連する多くの資料が綴じられています。

岐阜県の警部長川俣正名が岐阜県令小崎利準宛に4月9日に提出した供覧文書に、3月28日から4月8日までの板垣の動向が記されています。その4月8日の記事に、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由ハ永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されています。 これらの言葉が人々に語り継がれる中で、次第に「板垣死すとも自由は死せず」という、我々がよく知っている表現となって定着していったのでしょう。

板垣を暗殺しようとした刺客は、愛知県士族小学校教員の相原尚褧(しょうけい)という人物でした。この簿冊の中には、事件の直後に岐阜警察で相原に対して行われた尋問の記録も含まれています。その記録の中で、相原が犯行に至るまでの経緯が詳細に述べられ、事件の際に短刀を携え板垣の胸部を目標とし、「将来ノ賊」と呼びかけ、兇行に及んだことが記されています。

また、この簿冊の中には、当時は医師であり、そして後に政治家となって台湾総督府民政局長・満鉄総裁・東京市長・外務大臣等を務めた後藤新平が板垣を診察した書類も見ることができます。

生き延びた板垣は、その後明治29年(1896年)に第二次伊藤博文内閣の内務大臣となり、明治31年(1898年)6月に、第一次大隈重信内閣の内務大臣となりましたが、同年10月、内紛によって内閣は瓦解し、以後政界を去ります。晩年は社会事業家としての道を歩み、大正8年(1919年)7月16日、82歳でその生涯を終えました。

 

 

福沢諭吉 ~ベストセラー『学問のすゝめ』の著者

諭吉・・・『学問のすゝめ』これをよまずして文明開化の息吹には触れられない。開化ボーイ・開化ガールの必読書。

この本は若者にこそ読んでもらいたい。これからの日本を支える若い人が人間の平等と自立の考えを理解する手助けになられたら幸いである。

〇福沢諭吉のプロフィール

西洋の知識を日本に紹介し、『学問のすゝめ』を著した。のちの自由民権運動にも影響を与えた。

※福沢諭吉が『学問のすゝめ』などの著書でモデルとしたのはどこか、それは近代的な西洋です。西洋の文化を取り入れる動きが広がり、福沢諭吉の著書が読まれた。

〇福沢諭吉が生きた時代

1866     福沢諭吉、「西洋事情」で欧米諸国を紹介

1868     福沢、慶應義塾を創設

         明治維新スタート

1872     福沢、『学問のすゝめ』刊行

1901     福沢諭吉死去

後世の諸評家・・・・・・ものすごいベストセラーだったんだよ、この『学問のすゝめ』は。福沢自身は一種の西洋かぶれの気もあったようだね。のちに「脱亜入欧」などと唱えて、アジア侵略まで近代的な西洋をモデルにしたんだから。

文明開化とは、欧米の風俗や文化を積極的にとりいれた風潮のことをいいます。

 

関連記事

  1. 三春藩 化け猫騒動の背景

  2. 西郷の罠

  3. 幕府の誤算 ~鳥羽伏見の戦い~

  4. 坂本龍馬は武器商人だったのか

  5. 王政復古の2日前

  6. 一人芝居の大政奉還

おすすめ記事

  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫

猫は、真実を見ている。 はじめまして、黒坂メイ(ペンネーム)てす。「分かりやすい・簡単・安心して使える歴史ネタ」を提供し、「そうなんだなぁ」と歴史を身近に感じて頂けるホームページを目指しています。 宜しく、お願いいたします。

ページ上部へ戻る