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歴史ネタ帖

大御所(家康)の死

大御所(家康)の死

家康は、70歳になったころから、“日課念仏”をはじめた。長さが十メートル余りもある巻物に、毎日「南無阿弥陀仏」の名号を書き続けていくのである。そば近くつかえていた天海という僧が、「殿は、これまで多くの戦いで、たくさんの人の命を奪いました。その罪ほろぼしのためにも、ぜひ日課念仏をおはじめになることがよろしいかとぞんじます」というのを受けてはじめたというのだが、ときには一日に千以上も書くことがあったというから、家康がたいへん熱心にこれに取り組んでいたことが、よくわかるだろう。このころ家康は、すっきり太ってしまい、下帯のひもを自分でしめることもできないほどであったといわれている。背の高さは、155cmぐらいだったらしいから、まさにずんぐりむっくりの姿だったのだろう。その家康が、神妙な顔つきで机に向かい、一字一字に心をこめながら、南無阿弥陀仏の六文字を書き連ねていったのである。その心の中では、「自分は、罪深い一生を送ってきた。どうか戦いでしんだいった人々よ、心安らかに眠ってほしい」と祈っていたのにちがいない。また、そうすることによって、心を安らかにし、死後の安楽を願っていたのだとも思われる。

 

大御所(家康)の死 2

大坂の陣が起こったのは、この日課念仏をはじめてまもなくのことであった。そして家康は、日課念仏のことも忘れたかのように、豊臣氏をほろぼすために執念をもやした。

「このことがおわらないうちは、徳川氏の天下は安楽にならない。徳川氏に反抗する者は、皆殺しにせよ」というのが、彼にとっての大きな課題だったのである。おそらく、日課念仏をはじめた心も、大坂の陣に執念をもやしたのも、いずれも家康の本心だつたのであろう。そしてこれは、戦国時代の大名に共通する心根だったともいえる。その家康も、病気には勝てなかった。

1616年(元和2)正月、腹痛を起こしたのをきっかけに、一時は、食べ物がのどをとおらないほどになり、その後、よくなったり悪くなったりを繰り返した。その間に家康も、死の近いことをさとったらしい。形見分けをし、遺言を残している。

また、死の二日前には、三池典太(みいけひろのり)のつくった刀で罪人のためし切りをさせた。そして、「切れ味のすばらしい名剣でございます。」という報告を受けると、その血刀を枕元において、「われ、この剣をもって、長く子孫をまもろう」といったという。家康が死を目前にして、まだ心配だったのは、徳川氏の行く末であった。このことは、「・・・東国の諸大名の多くは譜代のものであるから心配はないが、心にかかるのは西国大名の動きである。西国をおさえるために、久能算(静岡県)に祭るわが神像は、西に向けて安置せよ」と遺言したことにもあらわれている。こうして家康は、1616年4月17日、75歳の生涯を終えた。

※ 大御所
将軍職を秀忠に譲り、駿府に隠居した家康は、「大御所」と呼ばれるようになった。大御所とは、隠居した将軍・公卿などに対する呼び名である。しかし家康は、大御所になったからといって、政治から手を引いてしまったわけではない。江戸では将軍秀忠が政治をとり、駿府では家康を中心とした政治がおこなわれるというようになった。この2つを比べれば、家康の力の方が強い。秀忠による政治は、駿府からの命令にそって行われるという状態であったらしい。この頃の記録には「秀忠は孝行の心を強く、いつも家康の教え通りにして、自分の考えを表に出すことはしなかった」という意味のことがかかれている。なお、大御所として政治をとった徳川の将軍としては、ほかに吉宗、家斉などがしられている。

 

 

家康の子どもたち

 家康には16人の子どもがいた。そのうち、11人は男子であるが、このうち三男の秀忠が徳川本家を継いで将軍となった。長男・次男が徳川家を継がなかったのは、次のようなわけがあったためである。長男の信康は、「これほどりっぱな殿は、二度とあらわれないだろう」といわれたほどの武将であった。

しかし、妻の徳姫(織田信長の娘)が、「信康は、武田氏と組んで信長に反抗しようとしている」と告げ口したため、信長から家康に、「信康を殺せ」という命令が出た。当時は、家康の力はまだ弱かった。そこで家康は、涙をのんで信康に自殺を命じた。

次男の秀康は、豊臣秀吉の養子になった。秀吉が明智光秀をほろぼしてから少しのちのことである。おそらく秀吉は、秀康を養子にうることによって、家康をおさえようとしたのだろう。つまり、長男や次男はときの権力者のために犠牲になったのである。

家康が60歳のころに生まれた9男・10男・11男の三人は、それぞれ何不自由なく育ち、尾張・紀州・水戸の藩主となった。この三家は、「御三家」とも呼ばれ、この後、徳川将軍家を守る親藩として、重要な役割を果たすことになったのである。

※家康の遺訓
家康はの遺訓として、よく知られたものの一つが次である。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。

不自由を常と思えば不足なし、心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。

堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。

勝ことばかり知りてまくることを知らざれば、害その身にいたる。

おのれを責めて人をせむるな。

この遺訓が、家康自作のものであるかどうかは疑わしい。天下が静まった元禄以降になってから、家康の事績・言行等を顧みて、その人生観・処世観はこのようであったろうと推察し、まとめたものではないかとわれている。しかしいかにも家康らしい考えが現れているので、長く伝えられることになっのであろう。

 

 

大名は鉢植えの木

徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いたのが1603年。やがて将軍職は、秀忠・家光と受け継がれ、幕府創設以来およそ40年余りの間に、江戸幕府の基はゆるぎないものになっていった。

江戸幕府の仕組み
大老(1人)・・・臨時におかれる最高の職

老中(4人)・・・政治全体をみる。

寺社奉行(4人)・・寺・神社・神官・僧の指図をする。また関八州以外の土地での裁判をする。

若年寄(4人)・・・老中が支配している役人を除いて、他の役人の指図をする。とくに旗本を支配する。

評定所・・老中・寺社奉行・勘定奉行・町奉行などが集まり、最高裁判所のような役割を果たした。

勘定奉行(4人)・・天領の監督、幕府の財政、関八州の中での裁判などを行う。

町奉行(2人)・・江戸の町の政治、裁判、警察の仕事をする。

大目付(4~5人)・・全国の諸大名の監視をする。

目付(16人)・・旗本の監視をする。

書院番頭・小姓組番頭・・将軍のそば近く仕える武士(親衛隊)の指図をする。

京都所司代(1人)・・京都の警固・西日本の大名の監視、皇室・公卿に関する仕事などをする。

城代(1人)・・大坂・駿府(静岡県)・二条(京都)の城におかれ、とくに大坂城代は、日日本の諸大名を監督する。

郡代(4人)・代官(40~50人)・・郡代は、関東・美濃・西国・飛騨の四つ。天領を支配し、年貢の取り立てなどをする。代官は各地の天領におかれ、天領の支配・年貢の取り立てなどをする。

遠国奉行(1~2)・・京都・大坂・長崎・山田(三重)・日光・奈良・佐渡などの町におかれた。

 

※旗本八万騎

将軍にじかに仕えている武士を、旗本・御家人とよんだが、このうち旗本は「お目見(おめみえ)」といって将軍に拝謁できる身分の者であり、一万石以下の知行地(実際に支配し年貢を取り立てることのできる土地。旗本の半分以上は、100~500石)をもらっていた。これに対し御家人は、お目見はできず、俸禄も米でもらっていた。旗本の数は、江戸時代中期で約5200、御家人は17300人余り。それぞれが家臣(陪臣)を従えていたから、合わせて8万ほどになった。

 

 

 

生まれながらのの将軍

1623年(元和9)、父秀忠の跡を継いで、当時20歳の徳川家光が三代将軍の位についた。その家光は、間もなく外様大名を江戸城の大広間に集め、次のように申し渡したという。

「私の祖父(家康)や父(秀忠)は、あなたたちと友だちだった時代があった。ともに戦ったりもした。

また、徳川氏が天下をとれることができたのも、あなたたちの協力があったからだ。それだけに祖父や父は、あなたがたをお客さまあつかいにして、江戸に出てくると聞けば、幕府の役人を迎えに出したり、ときには、みずから出迎えたりもした。

けれども、私はちがう。私は、うまれながらの将軍であって、あなたたちと友だちでもないし、あなたたちのおかげで将軍になったのでもない。だから、これからはあなたたちを、譜代大名と同じように家来としてあつかうことにしようと思う。

もし、これが不満なら、これから三年間のひまを与えるから、領地へ帰って心を決めるがよい。

弓矢で戦うのは武士としてあたりまえのことだから、幕府に戦いをしかけてくるのもよいだろう。

さいわいこの家光は、まだ戦いの経験がないから、一戦をまじえて、どちらの軍が強いのかためしてみようではないか。

大広間にあつまってきていたのは、いずれも、家光よりはるかに年をとった、しかも若いころから数多くの戦いを経験してきた大名たちである。

その大名達を前にして、これだけのことをいえたのは、一つには気性が激しく、ものにこだわらない家光の性格もあったろうが、そのうえに、江戸幕府の力がしっかり固まってきたという事実があったからだともいえる。

 

 

 徳川家康  ~征夷大将軍~ 

 

 

 

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