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歴史ネタ帖

妖怪 鍋島藩猫騒動

 

  由来をつくる「伝説」の妖怪

 東雅夫『妖怪伝説奇聞』は、タイトルどおり日本全国の「妖怪伝説」の紀行である。

著者たちは広島では『稲生物怪録絵巻』の舞台をめぐり、香川では牛鬼の図像や角を追いかけ、佐賀では鍋島猫騒動の史跡を探訪、妖怪が出現した現場を訪ね、妖怪を供養した塚や祠を探し、あるいは妖怪たちが遺した骨や木槌や秘伝の薬や、妖怪の姿を写した掛け軸といった秘蔵のお宝を見、妖怪退治が由来となつた年中行事に参加する。

こうした「伝説」の妖怪たちはいかにも個性的で、われわれの持つ「妖怪」のイメージにぴったりである。

しかしここで注意しなくてはならないのは、これらの「伝説」の多くは語られたものではなく、書かれたもの、社寺の縁起や書籍となり、文字で伝わった説話だということである。

そうした伝説が評判になれば、そこを訪ねた文人が紀行文を著して多くの読者に読まれたり、訪ねる人のための案内記が作られたり、その伝説をもとにした芝居や盆踊り歌や物語能がつくられて、さらに広い地域にひろまったりする。

そうした伝説をさらに調べよう、考証しようという、熱心なもの好きもあとに続く。

それが、江戸時代以降の「伝説」の辿った道であった。

このように有名な伝説は、その現場や証拠物が新たに「発見」されたり、絵巻や掛け軸や絵馬に図像化されたりして、枝葉をつけて発展してきたのである。

 

 ここでの「伝説は」口伝えの伝説ではなく、歴史化され文藝化され、あるいは観光化された伝説だというる。

そこに登場する妖怪たちも、相応の脚色がなされていると読むべきであろう。

 

 

鍋島の化け猫騒動

 肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣・小森半左衛門がネコを退治し、鍋島家を救うという伝説。

史実では鍋島氏以前に竜造寺氏が肥前を治めていたが竜造寺隆信死後は彼の補佐だっだ鍋島直茂が実権を握った後、隆信の孫の高房が自殺、その父の政家も急死。以来、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるため、天祐寺(現・佐賀市多布施)を建造した。これが騒動の発端とされ、龍造寺の遺恨を想像上のネコの怪異で表現したものが化け猫騒動だと考えられている。

また、龍造寺氏から鍋島氏への実権の継承は問題のないものだったが、高房らの死や、佐賀初代藩主鍋島勝茂の子が早くに亡くなったことなどから、一連の話が脚色され、こうした怪談に発展したとの指摘もある。

この伝説は後に芝居化され、嘉永時代には中村座で『花嵯峨野猫魔碑史』として初上演された。題名の「嵯峨野(さがの)」は京都府の地名だが、実際には「佐賀」をもじったものである。この作品は全国的な大人気を博したものの、鍋島藩から苦情が出たために間もなく上演中止に至った。しかし上演中止申請に携わったが町奉行が鍋島氏の鍋島直孝だったため、却って化け猫騒動の巷説が有名になる結果となった。

後年には講談『佐賀の夜桜』、実録本『佐賀怪猫伝』として世間に広く流布された。講談では龍造寺の後室から怨みを伝えられたネコが小森半左衛門の母や妻を食い殺し、彼女らに化けて家を祟る。実録では龍造寺の一件は関係しておらず、鍋島藩士の小森半太夫に虐待された異国種のネコが怨みを抱き、殿の愛妾を食い殺してその姿に成り変わり、御家に仇をなすが、伊藤惣太らに退治されるという筋である。

 

化け猫騒動までの経緯

天正12年(1584)、沖田畷の戦いで竜造寺隆信が敗死し、後を継いだ竜造寺政家が病弱だったため、実際の国政は隆信の義弟で重臣である鍋島直茂が掌握した。天正18年(1590)には豊臣秀吉の命により、政家は隠居させられ、家督は嫡男の竜造寺高房が相続した。秀吉は高房に所領安堵の朱印状を与えたが、同時に鍋島直茂にも4万4000石、その嫡男である鍋島勝茂にも7000石の所領安堵を認めている。つまり鍋島氏は龍造寺氏の家臣でありながら、大名並の所領を秀吉から承認され、同時に国政の実権を握っていたこともそのまま承認されたといってよいのである。秀吉の朝鮮出兵が始まると、直茂と勝茂は龍造寺軍を率いて渡海している。

騒動へ

秀吉の死後、覇者となった徳川家康もた龍造寺氏を無視し、鍋島氏の肥前支配を承認していた。そのため、国主である龍造寺高房は名目上の国主という立場にとどめられ、家康の監視下に置かれていた。成長した高房はこの立場に絶望し、慶長12年(1602)3月3日、江戸桜田屋敷で妻を刺殺した後、自殺を図る。家臣がこれを寸前で食い止め、医師が治療したため、高房の自殺は未遂に終わった。しかし高房の傷は思ったよりも深く、次第に高房は精神を病んでいき、再び自殺を図ろうとした。このときに腹部の傷が破れて出血多量により、9月6日に死去したのである。父親である政家の心痛は深く、これに生来病弱な体が耐え切れず、10月2日に後を追うように病死した。これにより、龍造寺氏の本家は断絶したかに見えた。

このため、龍造寺の分家である多久氏・須古氏・諫早氏などは高房の後継者として龍造寺本家を盛り立てた功臣・鍋島直茂の嫡男・勝茂を推挙した。幕府もこれを承認し、ここに鍋島氏を肥前の国主とする佐賀藩が正式に成立したのである。慶長18年(1613)年には直茂に対して、幕府から佐賀藩35万7000石の所領安堵の朱印状が交付されている。

無念の死を遂げた高房の遺体は、江戸で火葬された後、佐賀城の泰長院に葬られた。ところがそれから、高房の亡霊が白装束で馬に乗って現れては、夜中に城下を駆け巡るようになったという噂が立つようになる。この話が発展して、高房がかつて飼っていた猫が化けて出て直茂・勝茂に復讐を企て、鍋島氏の忠臣によって最終的には退治されるという化け猫騒動の筋書きとなる。

その後

しかし、龍造寺本家は政家・高房の死により断絶したわけではなく、高房の子・竜造寺伯庵と高房の実弟・竜造寺主膳が生き残っていた。両者は慶長12年(1607年)当時は若年のため、無視される形になっており、伯庵は直茂の命令で出家させられていたのである。

寛永11年(1634)、伯庵と主膳は幕府に対して龍造寺家の再興を嘆願した。この訴訟は寛永19年(1642)まで続けられたが幕府は認めず、伯庵を会津の保科正之をに預け、主膳は大和郡山藩に預ける処分を下し、事実上、龍造寺家再興の道は絶たれたのである。

龍造寺から実権を奪った直茂は元和4年(1618年)6月3日に81歳で亡くなった。このとき直茂は耳に腫瘍ができ、高齢ながら大往生とはならず激痛に苦しんだ上での半ば悶死であった。そのため、直茂の死は高房の亡霊のしわざではないかと噂された。

 

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