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歴史ネタ帖

 毛利元就 

 毛利元就

毛利元就は、安芸国(広島県)吉田の郡山城で生まれた。元就は、二男であったために、郡山城の西にある猿懸城に住むことになった。ここは、城というよりは、土づくりの塀をめぐらしただけの粗末な砦のようなものであった。しかも、このあたりは毛利氏の家来にあたる井上氏の治めていたところで、幼い元就は、その井上氏の助けをうけて毎日を過ごした。のちに、元就は、「私は、幼い頃から四十年もの間、井上氏に、まるで家来のように扱われ、悔しさを耐え忍んできた。その頃の惨めさをわかってもらえるだろうか。」と言い残している。幼い頃の苦労を忍ばせる話である。

毛利氏は、安芸国の守護あるいは守護代というような家柄だったわけではない。祖先は相模国(神奈川県)毛利荘の武士であったが、やがてこの吉田荘の地頭に任ぜられて安芸国に移り住み、土着するようになったといわれている。つまり、地頭として勢力をやしないながら、やがて国人としての地位を固めていったという家柄にすぎなかったのである。それだけに、尼子・大内の二大勢力にはさまれながら、時には尼子氏に従い、時には大内氏と結びつきながら、その勢力を保つという工夫が必要であった。

大内氏による尼子攻めに際し、それに組して戦ったのもその表れである。しかし、「毛利元就は幼いころから、大きな望みを持っていた」と、次のような話が伝えられている。それは、彼が12歳の頃、厳島神社にお参りしたときのことである。元就は、いっしょにお参りした家来の者たちに、「おまえたちは何を祈ったか」とたずねた。

家来のものが「若君が、安芸国の主人になるように、お祈りをしたのです」と答えると、元就は、たちまち大笑いして、次のようにはなしたという。「そんなに小さな望みでどうするのだ。世の中には、『棒ほど願っても、やっと針ほどしかかなわない』という諺があるではないか。一つの国の主人になろうと思えば、もっと大きな望みをもたなければならないのだ。どうせなら、『若君が、天下の主人のなれますように・・・・』と祈ってもらいたかった」これを聞いた家来たちは、「この若君こそ、いずれは天下に並ぶ者のない大名になるだろう」と、よろこびあったという。

 

厳島の決戦

毛利氏の実力がやしなわれていたころ、隣の大内氏では、重臣の陶晴賢が主君の大内義隆を討つとという事件が起こった。しかも下克上によって実権をおさめた陶晴隆は、毛利氏もその傘下におさめようと、さかんに働きかけてきた。北には尼子氏、西には陶晴隆という勢力に挟まれた元就は、その去就に迷った。陶氏の言い分を聞けば、毛利氏は将来とも、陶氏の風下に立たねばならないことになる。それでは、天下に覇をとなえようという、幼いころからの望みは断たれるだろう。かといって陶氏の現在の勢いは、毛利氏よりはるかに強い。しかも北方には尼子氏が、隙を狙っている。ここで決断をあやまれば、毛利氏の将来はないのである。しかし元就はついに、陶氏との戦いの覚悟を決めた。そして、その決戦が行われたのが厳島であった。

この決戦では、元就型の軍は4千、晴隆方は2万であった。しかし、思慮分別にすぐれていた元就は、前々から策を練り、有力な水軍を見方につけたり、謀略をめぐらせて晴賢とその家臣との離反を図るなど、周到な準備を重ねていた。これに対し、大国の自信を背景に、ただ力にまかせて元就の軍を打ち破ろうとした晴賢の軍は、とうてい勝ち目はなかった。元就の誘いにのって、厳島・塔ケ岡の狭い場所に集結した晴賢の大軍は、嵐の夜に不意に襲いかかった毛利の軍に挟み討ちされ、身動きがとれないままに惨敗したのである。時に、陶晴賢は39歳、元就は59歳であった。

 

 

 

 

三人の子へのいましめ

毛利元就は、郡山城主という立場から、しだいにまわりの領主を従えて安芸国に勢いを広げ、さらに周防・長門(山口県)をおさえるとともに、山陰地方へも進出した。その勢力拡大のもとになったは、武力と謀略であった。武力と謀略、それは、戦国の世の大名に共通するものであり、元就だけで使った手だてとはいえない。しかし、武力と謀略だけでは、領地を治めていくことができないのも、事実であった。元就はそのことをよく知っていた。

彼は、長男の隆元に、「毛利家が栄えるようにと願っている者は、他の国にはもちろんのこと、わが国内にも一人もいないと考えていなければならない」という意味のことを記した手紙を送っている。つまり、まわりにいる者を頼ってはいけない。すべてが敵と考えることが、安全を保つ道だと教えているのである。だからこそ彼は、「これまでにも、たびたび申し聞かせてきたことだが、もう一度よく聞かせておきたい。

兄弟三人(長男毛利隆元、二男吉川元春、三男小早川隆景)が少しでも仲たがいをすることがあるなら、それは、三人が滅亡することになるものだと覚悟するがよい」とも書き残したのであった。

 

江戸時代につくられたらしい次の話がある。

ある日のこと、元就は、隆元・元春・隆景の三人兄弟を呼び、一人一人に一本ずつ矢を与えて、おらせてみた。もちろん三人は、なんの苦もなく折ることができた。次に、三本の矢を一束にして折らせてみたところ、三人とも折ることができなかった。そこで元就は、「三人の兄弟がそれぞれわかれていると弱いが、一致協力すれば、どんな強敵にも負けることはない」と、三人に教えたという。

このような話まで残した元就の教えは、三人の子供たちに正しく受け継がれた。そして吉川元春・小早川隆景の兄弟は、あくまでも本家の毛利元就・隆元を助け、隆元の死後はその子、輝元を中心に協力しあった。そしてこのことが、親子兄弟で争いあい、家臣が主君を滅ぼすようなことの多かった戦国の世において、毛利氏の力をいっそう強めていくもとになったのである。

なお、1566年に毛利氏に攻めほろばされた尼子氏については、その家臣の山中鹿之助幸盛の話が特に名高い。「われに七難八苦を与えよ」と三日月に願いをかけた鹿之助は、主家尼子氏の再興に力をつくし、数度にわたって毛利氏と戦った。しかしその志をとげることができずに死んでいった武将である。

家臣が主君を討つことがすくなくなかったころに、ただひたすら忠義をつくした鹿之助の話は、美談としてのちのちまで伝えられた。

 

 

 

 

 

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