カテゴリー:日本史の通史
五箇条の御誓文由利公正の案とその修正 1886年(慶応4)1月、ちょうど戊辰戦争が始まったころのことである。できたばかりの新しい政府には、しなければならないことがいくらでもあった。そのため、連日のように会…
奥羽越列藩同盟 新政府は、奥羽鎮撫使総督府を設置し、その参謀で長州藩の世良修蔵が東北地方の諸藩恭順を促すために仙台藩に赴いた。ところが世良は、官軍の権威を笠にきて放漫であったため、憎まれて仙台藩士の手で暗殺されてしまっ…
江戸城の明け渡し 東征軍本体が駿府に迫ったころ、将軍慶喜は上野寛永寺にこもって恭順の意を表し、徳川家の救済と家名の存続を嘆願していた。その慶喜を意を受け、さらに徳川陸軍総裁であった勝海舟の手紙をあずかって駿府に向かい、大総…
相楽総三と赤報隊 東征軍本体が勇躍して進撃していたころ、別動隊として活躍する人々もいた。東山道を東へ進んだ赤報隊も、そのひとつである。その首領は、先に西郷隆盛の命を受けて、江戸市中の混乱に一役かった相…
死霊の祟り 藤原広嗣の乱 天平十二年(七四〇)、九州大宰府に左遷されていた藤原宇合(ふじわらうまかい)の長男・広嗣は、当時朝廷で重用されていた僧正玄昉と吉備真備を排除せよという檄、文を朝廷へ送り、それが無視されると、九…
鳥羽・伏見の戦い 1868年1月2日、将軍徳川慶喜をおしたてた幕府軍1萬5千は、「討薩除奸」(薩摩を討ち、朝廷から悪人を取り除く)を旗印に、大坂城を進発した。幕府軍の中心になったのは、会津と桑名の藩兵であり、会津藩先鋒の部隊は鳥羽…
戊辰戦争 慶応4年(1868年)は、十干十二支の戊辰の年に。前の12月に王政復古が成功し、新しい政府による政治がはじまったこの年は、3月には新しい政治の大方の方針を示した五箇条の御誓文がだされ、7月には江戸を東京に、9月…
ええじゃないか どうして、このようなことが起こったのか。 それについては、様々な説がある。 ある人は、これは討幕派が計画的に行ったことではないかという。 あらかじめ用意したお札などをまき散らかして、このような騒ぎをおこし…
葦名盛氏と雪村 蘆名家一五代葦名盛舜(もりきよ)の子として生まれた葦名盛氏は(大永元年~天正八年 一五二一~一五八〇)は、天文二二年…
伊東彦三郎と猪苗代盛胤の墓伊東氏の菩提寺、舘村真言宗岩上寺境内には累代の墓碑が見当たらない。これは猪苗代氏の場合とも共通で同地にも最後の城主で伊東彦三郎と、一時は盟友であった盛胤の墓碑はささやなながら存するほかは、累…