藤原広嗣の乱 ~死霊の祟り 第一号~
死霊の祟り 藤原広嗣の乱
天平十二年(七四〇)、九州大宰府に左遷されていた藤原宇合(ふじわらうまかい)の長男・広嗣は、当時朝廷で重用されていた僧正玄昉と吉備真備を排除せよという檄、文を朝廷へ送り、それが無視されると、九州で反乱を起こす。
これが「藤原広嗣の乱」である。
この反乱は朝廷軍によって制圧され、広嗣は東シナ海の済州島の近くまで国外脱出したのだが、逮捕され、処刑された。
天平一八年(七四六)六月、広嗣に批判された玄昉法師は筑紫観音寺に左遷されていたが、十八日に現地で死ぬ。
唐から帰国後、朝廷に重用されたことで図に乗りすぎ、僧侶としての節度を忘れた人だともいわれる。その玄昉が突然死した。
『続日本書紀』は、その死を
世間の噂であるが、と前置きしながら、広嗣の死霊に取り殺されたと伝える。
朝廷の手によって暗殺されたか、広嗣の残党によって殺されたか、とにかく尋常な死ではなかったと思われるが、死霊の祟りだという。
妖怪に代わる怖ろしき「モノ」として、史書が半ば認めた怨霊の第一号がこの藤原広嗣の死霊であった。
『妖怪学の基礎知識』より