カテゴリー:日本史の通史
西郷隆盛の考え 西郷は、士族の行方を心から心配していた一人であった。と同時に西郷は、新しい政治の経緯に苦々しい思いをさせられてもいた。 彼に進言した鳥尾小弥太(もと長州藩 士・陸軍少将)は、その中で、「今や文明開化と称し米を父とし…
文明開化と過激 ~伝統文化をこわした人たち~ 旧弊のひとたちとは反対に、「世の中は新しくなったんだ」「古いものは、もういらないんだ」と、古いものをすべて打ちこわしてしまおうとする人々もいた。 1870年(明治3)、熊…
高まる士族の不満 ~神風連の乱~旧肥後藩であった熊本県には大きくわけて3つの党派があった。1つは、学校党とよばれた藩校時習館の出身者、旧藩の上士を中心とした士族たちで、これが最も多かった。1つは、洋学党で、開明的な人…
東北の日光見禰山 ~土津神社~ 東北の日光といわれる建造物群が猪苗代町の見禰山にありました。 それは、会津松平家の祖・保科正之をまつる猪苗代町の見禰山で、猪苗代湖を一望する磐梯山麓の…
明六社の人々 文明開化を進めようとしたのは、政府だけではなかった。民間の人々の中にも、「これからの日本は、文明開化をめざさなければならない。それは衣食住などを西洋風にまねるだけではない。まず大切なのは封建…
士族と官吏 1880年(明治13)の記録によると、中央・地方の全官吏の74%は士族であった。官吏の給料はきわめて高く、1878年には最下級の官吏でも月給12円であったという。 ところが、官吏になれたのは、全士族の1割く…
武家の食事風景です。 こちらは、鳥田家の食事風景です。 坂本龍馬の長崎初上陸の地は、島原だったという案内板です。 島原の武家屋敷の街並みが保存されていて、散策できます。…
池田光政 姫路城主 池田光政と南総里見八犬伝江戸前期の備前岡山藩主。池田利隆の子。初名は幸隆。父歿後、播磨藩を継ぐが、幼少を理由に減封され鳥取城へ移る。元和9年(1623)将軍徳川家光の偏諱をうけて光政と称する。のち鳥…
殉死 ~ 伊達政宗の孫光宗 三慧院 ~ 七人の殉死者 仙台松島、瑞巌寺の左脇にある円通院の奥に三慧院がある。 ここは、伊達政宗の孫光宗の菩提所で、正保4年55月仙台第二代伊達忠宗の建造…
人民告諭 告諭とは「諭し教える」という意味である。明治政府は、人民告諭を題して、天皇のありがたさ、智異などを国民に知らせるように努めた。というのも当時の国民の多くは、天皇のことなど知ってはいなかったのである。将軍や大名…