姫路城主 池田光政と南総里見八犬伝
池田光政 姫路城主 池田光政と南総里見八犬伝
江戸前期の備前岡山藩主。池田利隆の子。初名は幸隆。父歿後、播磨藩を継ぐが、幼少を理由に減封され鳥取城へ移る。元和9年(1623)将軍徳川家光の偏諱をうけて光政と称する。のち鳥取から岡山に入城、三十一万五千余石を領する。幼時より学を好み、中江藤樹を慕う。藤樹歿後は熊沢蕃山を国政顧問として重用する。諸制を改革、文武を奨励し藩政改革に尽力する。天和2年(1682)歿、74才。
鳥取藩主となった光政の内情は苦しかったという。因幡は戦国時代は毛利氏の影響力などが強かったとはいえ、小領主が割拠して係争していた地域だったところから藩主の思うように任せることができず、生産力も年貢収納量もかなり低かった。
しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮した。このため、家臣の俸禄は姫路時代の6割に減らされ、下級武士は城下に住む場所が無いので土着して半農半士として生活するようになった。
光政は鳥取城の増築、城下町の拡張に努めた。
元和6年(1620年)、幕府より大坂城城壁の修築を命じられている。
大久保忠隣の失脚事件に連座して安房国から改易された里見忠義は、伯耆倉吉藩に預けられた。流人とは言え、忠義には4,000石が与えられていたため、大岳院に3石1斗8升の寺地寄進をするなどの、それなりの身分を保っていた。しかし、元和3年(1617年)、池田光政が因幡鳥取藩に移封となった際にその4,000石も取り上げられ百人扶持の知行とされた。
なお、元和8年(1622)に貧困のうちに亡くなった忠義に家臣8名が殉死した。彼らの戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称されるようになり、これが『南総里見八犬伝』の八犬士のモデルになったという説がある。
大久保忠隣(おおくぼ ただちか)は、戦国時代から
江戸時代初期にかけての武将・譜代大名。相模小田原藩の初代藩主。父は大久保忠世、母は近藤幸正の娘。講談で有名な旗本の大久保忠教の甥にあたる。小田原藩大久保家初代。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時には東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、途中の信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立する(上田合戦)。
慶長6年(1601年)、上野高崎藩13万石への加増を打診されるが固辞した。慶長15年(1610年)には老中に就任し、第2代将軍・秀忠の政権有力者となる。
ここで、池田光政をとりあげたのは、姫路城主としての期間があることから、紹介してみました。
10万石減らされて財政が苦しかった陰で、里見家嫡流の里見忠義がなくなっていて、その家臣8名が殉死していたことがあった事実を知って、ひどいじゃないかなって。
大人の事情じゃない、 政治上の事情なのでしょうが、息子でもない婿なのに、そんなひどい仕打ちをしていいのか?
嫡流です。まだ20代の青年が貧困のうちに無くなるとは
里見八犬伝が書かれるのも無理ないか。
徳川家康の長女 亀姫