蓮如と真宗教団
蓮如と真宗教団
真宗をおこしたのは、鎌倉時代初めごろの親鸞である。親鸞は、「阿弥陀仏にすがり、ひたすら南無阿弥陀仏ととなえれば、悪人でも極楽往生できる」と説き、その教えは多くの人々に喜ばれ、受け入れられていった。しかし親鸞の死後は、真宗の勢いはそう強くならなかった。死後数百年たったときでも、東国にいくつかの門徒の集団ができていただけであったという。ところが、15世紀の初めに蓮如が出てから、様子は大きく変わってきた。親鸞の血筋をうけた蓮如は、京都・東山の大谷にあった本願寺で生まれた。
この大谷本願寺は、教祖の親鸞が年をとってから住んでいた場所にできた寺であるが、たいへん貧しかった。蓮如はこの寺で、衣食も充分でなく、勉強するにも灯油が不足がちで、夜の明かりにも困るほどの生活を送ったと伝えられている。けれども蓮如は、その苦しい生活にくじけなかった。
むしろ、親鸞の教えを各地に広めるとともに、教団の勢いを強めようと決心し、熱心に布教につとめた。彼がみずから出向いて布教した地域は、近江(滋賀県)・摂津(大阪府・兵庫県)・三河(愛知県)・河内や和泉(大阪府)・越前(福井県)・加賀(石川県)などの各地にわたっているが、そのために真宗門徒の数は急にふえていった。
さらに彼は、1478年から京都の山科に新しく本願寺をつくりはじめた。もちろんこれは、門徒の人々の寄進(志納銭しのうせん)をもとにしたものであるが、そこにつくられた本願寺は、周囲に堀をめぐらした広大な境内の中に、美しくみごとな建物がいくつも並び、人々から、「まるでこの世の仏国だ」といわれたほどすばらしさであったという。これだけの寺をつくれたのも、真宗の熱心な信者が各地に生まれたことのあらわれだといえる。こうして蓮如の時代には、真宗は数百万の門徒を従える教団になったのである。
≪親鸞について≫
親鸞(1173年から1262年)は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧である。浄土真宗の宗祖とされる。
時代背景は、永承7年(1052年)末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まっていた。
保元元年(1156)7月9日、保元の乱がおこる。
平治元年(1159)12月9日、平治の乱がおこる。
このように、貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こった時代である。
親鸞の誕生地は、承安3年(1173)4月1日、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野にて、皇太后宮大進日野有範の長男として誕生した。
母は、清和源氏の八幡太郎義家の孫娘の「吉光如 きっこうにょ」とされる。
幼名は、「若松麿」「松若丸」「十八公麿」である。
治承4年(1180)~元暦2年(1185)、治承・寿永の乱おこる。
治承5年(養和元年 1181)に養和の飢饉が発生し、洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。(『方丈記』)
戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。
得度は、青蓮院で治承5年(1181)9歳、京都青蓮院において、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度し、「範宴はんねん」と称する。言い伝えによると、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴(はんねん)が、
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
と詠んだという話が残っている。
無常観を文学的に表現した歌である。