血色の海 ~『続日本紀』に現れる怪異~
『続日本紀』に現れる怪異
天武天皇の孫の聖武天皇へ、都も藤原京から平城京へと遷ってゆく。妖怪もますます出番を失ってゆく時代になる。なぜなら皇位継承などの権力争いで人間そのものが妖怪化していくからである。
商務天皇天平三年(七三一)六月十三日条に異変が告げられる。
紀伊の国阿氐(あで)郡の海水が血の色に変色し、五日を経て快復したと記されている。
紀伊の阿氐郡とは、現在の和歌山県有田市のあたりである。なぜこの付近の海が血の色にそまつたのだろうか。
『日本霊異記』の説話世界を手がかりに探してみると「血の海」に結びついてくる事件が浮かび上がる。
それは二年前の出来事である。
天平元年(七二九)二月十三日、時の左大臣・長屋王が謀叛の嫌疑をかけられた挙句、夫人の吉備内親王と四人の息子と共に自殺に追い込まれるという事件があった。
おそらくこの事件は光明子を皇后に昇格させるために仕掛けられた藤原氏の陰謀と考えてよい。
事件に驚いた聖武天皇はそれでも、罪人といえどもその葬儀を醜くするなという勅を発し、長屋王・吉備内親王の遺体は生駒山に葬られたと『続日本紀』に記されている。
この二人の墓は、生駒山平群谷(へぐりだに)に今もある。
『日本霊異記』によると、違うらしい。
長屋王などの遺体は城の外に捨てて、焼き砕いて河に散らし、海に捨てた。
そして長屋王の骨は土佐の国に流したが、祟りなのか、その国の百姓たちに死ぬものが多くなり、訴え出たので、その骨を紀伊の国の海部郡の椒抄(はじかみ)の奥(おき)の島に移し置いたという。
海部郡椒抄の奥の島というのは、有田市沖合にある沖ノ島のことで、現在は夏のキャンプ客でにぎわうが、地元では、漁師もあまり近づきたがらない無人島で、この島に近づくと祟られると今でも地元では語り継がれているという。
血の海の後日談 ~祟って出るのは死後3年目の法則~
血の海は、長屋王の死後三年目の出来事で、死んだ人が祟って出るのは三年目が多い、それに合致しているのがこの現象である。
長屋王の死後九年目の天平十年(七三八)七月、宮中で囲碁をしていた大伴子虫(おおとものこむし)という男が、中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまひと)という男を斬殺したという事件が起こる。
中臣東人は長屋王の謀叛を密告した男で、子虫がそのことを憤り、殺害におよんだという。
そして『続日本紀』はこの中臣東人を「長屋王を『誣告』した人」つまり、でたらめの密告をした人であると紹介してあり、長屋王の謀叛は捏造であったことを正直に暴露している。
兎に角人の世は住みにくい。人は妖怪よりもうらみ、ねたみ、そねみの心が心根が深く、怖ろしい「モノ」であるとこは認めてもよい。
その後もこうした朝廷を取り巻く権力闘争は続発し、権力を握人、滅びる人、そして死後化けて祟る怨霊などの人間世界の異変が展開していく。
『妖怪学の基礎知識』より