葦名盛氏と雪村
葦名盛氏と雪村
蘆名家一五代葦名盛舜(もりきよ)の子として生まれた葦名盛氏は(大永元年~天正八年 一五二一~一五八〇)は、天文二二年(一五五三)年家を継ぐと、会津地方から中通リの一部までを服属させ、越後の上杉、甲斐の武田、相模の北條氏ら東日本の有力大名と友好関係を保ち、蘆名家を絶頂期へと導いた。
代々葦名家の本拠地であった黒川(会津若松市)も天文年間には城下町として大いに発展し賑わいを見せます。
盛氏は、文化面にも深い関心を持ちましたが、室町時代末から桃山時代にかけて関東東北を中心に活躍し独自の水墨画を描いた雪村との関係は特に注目される。
盛氏は天文一五年(一五四六)に雪村から絵画の手引書と思われる「画軸巻舒法」を授けられました。
「画軸巻舒法」の内容は不明ですが、酢既にこの当時、会津の地で盛氏と雪村との間に芸術を通じての交流があったようである。
その後、雪村は北条氏を頼り小田原に向かい、さらに鎌倉に滞在し、この時に親奥の名画を鑑賞し、画家と禅僧たちとの交際を広げたようです。
永禄四年(一五六一)にころには再び会津を訪れ、同年隠居した盛氏が築きはじめた向羽黒の岩崎城(会津本郷町)の障壁画を描き、同六・七年には山水画を盛氏に献上しています。
雪村の会津滞在は一〇数年に及びましたが、天正元年ころには三春(三春町)に移り、雪村庵を構え、晩年に至ってもなお盛んに画を描き続け、彼の地で没したのです。
葦名氏の埋蔵金
会津葦名義弘が、伊達政宗に敗れ故郷の水戸に逃れる際、金の延べ棒など馬18頭に積んできたが、途中伊達軍や盗賊に狙われているのを察し、舟に乗せて中田湾に沈めたと伝えられています。
その後、赤津代官所に運ばれたとも伝えられます。
昭和の初めころ、「古文書」がみつかったと、郡山の人が引き揚げようと潜水夫をたのみ湖底を探したことが有りましたが、ついに見つからなかったようです。警察が出向くような騒動に発展し、中止になったとか。