西郷と竜馬
薩長同盟 ~西郷と竜馬~
神戸の海軍操練所が閉鎖されると、薩摩藩の西郷吉之助は、竜馬を大坂の薩摩屋敷に呼び寄せた。西郷は、海軍についての竜馬の才能を高くかい、薩摩藩のために役立てようとかんがえていたのである。
その竜馬は、この後薩摩藩の援助を受け、長崎の亀山で開運業をはじめる。この亀山社中は、グラバーとも共同しながら武器の売買や物産交易も行った。
けれども竜馬は、とても薩摩藩のために働いているだけで満足しているような人物ではない。
「西郷さん、今の日本は薩摩だ、長州だなどと国内で対立しているときではありませんよ。まして互いに憎み合ったり、争ったりしているときでもありません。そんなことをしていたら、日本は外国の餌食になってしまいます。いまこそ江戸幕府を倒し、全国の大名を1つにまとめて、統一国家をつくるべきときなのです。そのことができるのは、私がみるところ薩摩と長州しかありません。西郷さん、長州と手を握りなさい。およばずながら私もそのために力を貸しましょう。
と説くのであった。
実はこのころ幕府は、第二次長州征伐を計画し、長州藩はそれに対抗するための準備に追われていた。それだけに、長州藩としてももし薩摩藩と手を結び、その協力が得られれば、どんなに心強いかしれない。しかも、薩摩の西郷・大久保も、長州の高杉・木戸(桂小五郎はこのころ、木戸貫治と改名していた。)も、同盟の必要を感じるようになっている。まさに機はじゅくしてきたのである。
坂本龍馬らによる斡旋は、まず薩摩藩の名で購入した武器などを長州へ運ぶという形で実現することになつた。さらに、両藩の人物のひそかな交流が繰り返され、ついに1866(慶応2)年1月21日には、西郷隆盛と木戸貫治との間で、坂本龍馬を証人としながら、
その内容は、・もし(第二次長州征伐の)開戦となったら、薩摩藩は兵を2000千を上京させ、在京の兵とともに京都・大阪を固める。
・開戦せずに幕府軍が東帰したら、薩摩藩は、長州藩の無実の罪が解けるように朝廷に働きかける。
・長州藩免罪の後は、両藩は誠意をもって一体となり、皇威の輝きが回復するように粉骨砕身する。
などを含むものであった。
これは、第一次長州征伐から約1年半後のことであった。そのわずかな間に、憎しみや対立から協同へと、大きな転換がおこなわれたのである。
事実、第二次長州征伐が実施されても、幕府が最も頼みにした薩摩藩は動かなかった。一方、薩摩藩の援助もあって武器を蓄えた長州藩は幕府軍を各所で打ち破った。
こうして第二次長州征伐は、将軍家茂の死とともに、長州藩有利のうちに休戦となったのである。
※ 亀山社中は、薩摩藩の援助をうけてできたことが、あああーーービックリした。
薩摩藩の武器購入や長州藩に武器を運ぶ仕事を竜馬がしていたのか。
坂本龍馬の暗殺者の黒幕は、、、、、なんか、、、、見え隠れするかな?
西郷隆盛という人物を改めて再評価した一日になりました。
鹿児島にいってみたいなあ~~☆彡
『スーパー日本史』から抜粋しました。勉強になった。