問題なのは「軍事と造作」
蝦夷の国
蝦夷というのは、東北地方の中央から北部にかけて住んでいた人々に対して、当時の都の人々がつけた呼び名である。もともと大和朝廷の勢いが、東北地方にまでおよんでいったのは、大化の改新以前からのことであった。それは大化のころに、この地方の南部に「道奥 みちのく」と呼ぶ国をおいたことからもわかる。この道奥とは、東海道・東山道の奥にある地域という意味であり、宮城県・山形県の南部あたりまでを含んでいたらしい。
蝦夷と呼ばれた人々が住んでいたのは、主にそれより北の地域であった。やがて朝廷は、その地域にも勢いを広げようと考え、そのための施策も進めるようになった。出羽柵(山形県)・多賀城や伊治城(いじじょう 宮城県)などを設けて周囲の地域を経営する根拠地にしようとしたのも、国々から農民を集め「柵戸」と呼ばれる移民として、この地域に住まわせるようにしたのも、その表れである。
柵戸は、明治時代に北海道の開拓に当った屯田兵のような武装移民であったが、多くの場合、蝦夷の人々とは平和に共存していたらしい。すすんだ農業技術を教えたり、必要な物資や馬などの家畜を物々交換して手にいれることも多かった。また蝦夷の中には、自らすすんで服属し朝廷の支配下にはいる者もあった。
しかし、朝廷側の支配に反発し、武力で抵抗しようとした人々も少なくない。「勝手なことを言うな。ここはもともと、わたしらの土地だったのだ。そこへ勝手にはいってきてとやかく言うのは、けしからなではないか」というのである。こうして、各所でこぜらあいが起こっていたのだが、奈良時代の末からは、その傾向がいっそう激しくなった。
蝦夷との戦い
780年(宝亀11)、桓武天皇が即位する前年のことである。ついに、大事件が起こった。 参議の地位にあり陸奥按察使も兼ねていた紀宏純(きのひろずみ)が、蝦夷の首領伊治公砦麻呂(いじのきみあざまろ)の軍に襲われ、伊治城で殺されるという事件が起こったのである。そしてこの事件が、こののち30年余りも続く蝦夷との戦い、つまり藤原緒嗣の言う「軍事」のきっかけになったのであった。
しかし蝦夷との戦いでは、朝廷の軍は旗色がわるかった。例えばつぎのようである。
780年、征東大使(将軍)に任ぜられた藤原小黒麻呂は、数万の兵を率いてながら、すすんで蝦夷を討とうとはしなかった。冬の寒さが心配だし、大軍を進ませたとしても、食糧をどのように手に入れるかという問題も解決していたない、というのがその主な理由であった。しかし、実は手ごわい蝦夷の力におそれをなしていたのかもしれない。
こうして、朝廷の軍がぐすぐずしているすきに、蝦夷の首長たちは、さかんにゲリラ戦をいどんできた。草むらや木陰にこっそりとかくれ、朝廷の軍を待つ。そして不意に姿をあらわすと、「蜂のようにむらがり、蟻のように集まって」襲いかかるのである。このため、ほとんど全滅してしまった部隊もあった。
とうとう小黒麻呂の率いた郡は、戦いらしい戦いもしないうちに解散し、小黒麻呂らの武将もまた、都へ引き返してしまったという。
問題なのは「軍事と造作」 1
都づくりをはかどらせ、早く完成させようと、桓武天皇はいつも心にかけていた。しかし、工事は長びくばかりである。
このような状態の中で桓武天皇は、藤原緒継(ふじわらのおつぐ)・菅野真道(すがのまみち)という参議を呼び、「天下の徳政をすすめるために、こののち、特に何をしたらよいと思うか」と問いかけ、その意見を率直に述べさせた。都をうつしてから十年余りたった、805年12月のことである。 藤原緒嗣は、桓武天皇が「なんじこそ自分の恩人である」とまでいった藤原百川の子である。このとき32歳であったが、天皇の問いに答えて、堂々と次のように述べた。「天下の徳政とは、天かの民の苦しみを取り除き、安心して暮らせるようにすることだと思います。ところがいま、天下の民は軍事と造作の2つに苦しんでおります。私はなるべく早くこの2つをやめることが、大切だと考えております。」緒嗣のいう“軍事”とは、蝦夷征討の戦いのことである。東北地方へ大軍を送ってこの地方の蝦夷を討つという戦いである。東北地方へ大軍を送ってこの地方の蝦夷を討つという戦いは、すでに30年余りもつづき、“造作”とは、都づくりをさしている。
問題なのは「軍事と造作」 2
都づくりも、長岡京づくりに10年、つづいて平安京づくりを手掛けて10年と、あわせて20年以上もつづき、やはり莫大な費用を使い、たくさんの人民を、はげしい労働にかりたてていた。緒嗣は、「このように多くの費用を使い、民をくるしめる事業をやめることこそ、天下の徳政なのだ」といいたかったのである。
これに対して菅野真道は、緒嗣とは反対の意見を述べた。「軍事も造作も、必要があってはじめたことなのです。目的を達するまであくまでもつづけたほうがよいと、私は考えます」というのである。真道は、平安京づくりのための造宮職(ぞうぐうしき)次官という約についていたから、「せめて平安京だけは、早く完成させたい」という気持ちがつよかったのかもしれない。
2人の意見は、なかなか一致しなかった。しかし、この2人の議論を聞きながら、桓武天皇はひそかに決心をしていた。「たしかに、緒嗣のいうとおりだ。蝦夷征伐も平安京づくりも、私が心から望み、特に力を入れて進めてきたことであったけれども、天下の民の苦しみは、日ごとにましている。また、莫大な費用をまかなうために、たくさんの税を取り立ててきたけれども、それにも限度があある。この辺で、2つの事業に区切りをつけた方がよさそうだ」
ついに天皇は、平安京づくりの中心になっていた造宮職という役所を廃止する決意を固めた。
また、蝦夷征討の軍にも、中止の命令をだした。もっとも、造宮職が廃止されたとはいっても、都づくりがまったく行われなくなったわけではない。その後はち、木工寮(むくりょう)という役所を中心に、少しずつつづけられていくことになったのである。