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歴史ネタ帖

長岡京の建設

長岡京の建設

 即位から三年の784年(延暦3)、桓武天皇は、山城国(京都府)に長岡京の建設をはじめた。
「新しい政治をすすめるには、都をうつして、人々の心を新たにする必要がある。それに長岡は、水陸の交通が便利で、都をつくるのにふさわしいところだ」というのが表向きの理由である。たしかに、そうした理由もあったろうが、最大の理由は別のところにあったらしい。実は、平城京に都をうつして以来、代々の天皇の位についてきたのは、天武天皇の子孫であった。ここに栄えた天平文化は、いわば天武天皇が築きあげてきたものだったのである。

ところが、桓武天皇は、天武天皇と対立していた天智天皇の流れをくんでいる。それだけに、天武王朝が栄えた平城京にとどまるのは、気がすすまなかった。むしろ、「血筋が違うわれらは、新しい都にうつって新しい王朝をたてるのだ」という気持ちの方が強かったのだろう。このような天皇の気持ちを察したのだろうか、中納言の官職にあった藤原種継は、都をうつすことをさかんに天皇に進めた。

 

種継は、桓武天皇を天皇の位につけるために努力し「恩人」とまでいわれた藤原百川の甥にあたる人物である。おそらく、新都建設に手柄を立てて、自分の勢いをいっそう広げようと考えたのに違いない。その種継が、新しい都の候補地としてあげたのは、山城国長岡の地であった。山城国は、新羅から渡ってきた秦氏が、すぐれた土木技術をもとにして切り開いてきた土地である。また、その結果として、巨大な富をたくわえてもいた。そして、種継の母は、この秦氏の出身であった。種継は、母にゆかりの深い山城の地に秦氏の力を借りて都をつくり、勢力を広げるもとをつくろうとしたのだろう。こうして、あたらしい都づくりの場所がきまった。そして、種継は、造営長官として、都づくりの指図をすることになった。

 

 

造営長官種継の死

 種継の努力もあって、都づくりは速いスピードで進められた。わずか一年たらずの間に、天皇は長岡京へうつった。そして、東西42メートル、南北22メートルという基壇の上に立つ広大な大極殿で、新年の儀式が行われたほどであったという。
 とはいっても、都に必要なものすべてができあがついたわけではない。仕事熱心な種継は、さらに昼も夜もというように、工事の進みぐあいを監督して歩いた。ところが、785年の9月22日の夜、見回りの中種継は、突然続に襲われた。暗闇の中から矢を射掛けられたのである。矢は、種継の身体をつらぬいた。そして、自宅に運ばれた種継は、間もなく息をひきとった。“造営長官の暗殺”・・・まさに大事件である。この知らせは、ただちに各所に知らせられ、犯人捜しが始まった。


ところが、犯人がつかまってみると、まことに意外な事実がわかってきた。首謀者は、この事件の1か月前ほどになくなった大伴家持であり、彼が大伴・佐伯というかつての名門一族のの者たちによびかけて事件を起こしたというのである。しかもこの企てには、桓武天皇の弟である皇太子早良親王も加わっているのだという。


たしかに大伴・佐伯らは、大化の改新以前からの名門であり、武勇ほまれ高い家柄である。血筋・家柄の尊さが何にもまして尊重されていた時代のことであるから、この一族にとって新興の藤原氏のめざましい台頭ぶりは、まことに目障りであった。むしろ、敵意さえ感じていたかもしれない。ことに大伴氏一族を率いていた家持の心の中は、「このまま藤原氏に抑えられていたのでは、先祖に対して申し訳ない。なんとかしなければ・・・・。」という思いが渦巻いていたことだろう。だからこそ彼は、一族への激励をこめて詠んだ長歌「族を喩」の中に、次のような短歌をのこしている。

  剣太刀  いよよ研ぐべし  古ゆ
   清けく負いて 来にしその名ぞ

しかし、そのような状態であったからといって、家持がたくらんだ事件とはいいきれない。まして早良親王が加担していたというのも、信じきれないことである。捕えられた親王は、10日余りも絶食し、水さえも飲もうとしなかったという。そして淡路島に流される途中で、命を絶ったというが、これも無実の罪への抗議のしるしだつたのではないかといわれている。むしろ、この事件については次のようにも考えられる。

桓武天皇は、弟を皇太子にたてながらも、第一皇子である安殿親王(あてしんのう)への譲位を望んでいた。また、古くからの名門貴族が、何かというと保守的な言動に走るのを、快く思っていなかった。そこで、種継暗殺の事件をきっかけに、皇太子を退け保守派の者たちに打撃をあたえようとしたのではないか・・・・と。

 いずれにしても、早良親王が恨みをいだきつつ死んだことは事実である。世の人々は、「このままではおさまるまい。必ずや、親王の祟りが天皇の身に及ぶだろうよ」と噂しあったという。こうして種継の死は、長岡京を血塗られた都にしてしまった。そればかりか早良親王の死は、朝廷の人々に底深い不安をもたせることにもなった。

また、その不安の原因になった「早良親王の祟り」を感じさせるようなことが、次々に起こった。788年(延暦7)から790年にかけて、天皇の夫人藤原旅子、母の新笠(にいがさ)皇太后、乙牟漏(おとむろ)皇后などが、相次いでなくなったである。さらに皇太子にたてられた安殿親王が、風病に倒れるということも起こった。

風病とは、今でいうと躁鬱病のようなものらしいのだが、占わせてみると、これも「早良親王の祟り」だという。

天皇は早速、使いを早良親王の墓のある淡路島に遣わし、親王の霊を慰めたが、それで「祟り」から逃れられようとも思えなかった。



※大伴家持(718?~785)

 大伴氏は、古代から畿内に勢力があった大豪族であった。大和朝廷の成立後は、物部氏と共に大連になっておもに朝廷の軍事をつかさどっていた。大伴金村の任那割譲事件以来勢力が衰えたが、壬申の乱で大海人皇子側についてから、再び重く用いられるようになっていた。
 大伴家持のころには、昔からの豪族の代表として、藤原氏が勢力を伸ばしていくことに面白くない感情をもっていたことだろう。
『万葉集』には、この家持の歌が479首も納められている。これは、全体の1割以上にもなる数である。
このため、家持は『万葉集』をつくる中心人物だったろうといわれるほど、奈良時代を代表する歌人であった。

しかし、家持は、ただの歌人であっただけではない。国司を務め、参議、中納言まであがった政治家であった。さらに、大伴氏一族を率いる立場にもあったのである。

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