まむしの道三
北条早雲が死んで間もなくのころ、美濃国(岐阜県)では、松浪庄五郎(まつなみしょうごろう・・のちの斎藤道三)が、野望をつのらせていた。
京都で浪人の家に生まれた彼は、幼いころ寺にあずけられ、法蓮坊と呼ばれていたという。
生来賢かった彼は、修行中に仏教はもちろんのこと、儒学・軍学などさまざまな学問をおさめ、さらに歌舞・音曲にも通ずるようになった。
しかし、やがて実家に帰ると、油商人の家に婿入りして山崎屋庄五郎を名乗り、各地を歩いて行商をしていた人物である。
ところでこの庄五郎には、「いずれは一国一城の主になりたい」という野望があった。
利発な彼にとって天下の情勢は、「今こそ実力がものを言う時代だ」と感じさせるものだったのだろう。
山崎屋に婿入りし各地を行商して歩いたのも、その野望のための準備だったのかもしれない。
その彼が目をつけたのは、美濃国であった。
このころ美濃国は守護の土岐政頼によって治められていたが、国人たちの争いに一向一揆などが重なり、政治情勢が不安定であったのである。
さて、土岐氏の重臣長井長弘の居城・稲葉山城下で、油売りとしての評判を高めた庄五郎は、やがて長弘の推薦で守護の弟頼芸(よりなり)に仕え、その多芸多才ぶりを発揮して、深く信任されるようになった。
ときに29歳であった。
やがて彼は、跡継ぎの耐えた長井氏の家臣西村家を継いで、西村勘九郎と名乗るとともに、さらに、
・頼芸をたきつけてその兄である守護の土岐政頼を追放し、土岐家の実権を握る。
・かつて恩をうけた長井長弘が邪魔になったため、その不行跡を理由にして殺害する(長井新九郎規秀と改名)
・病死した守護代斎藤利良の跡を継ぐ(斎藤左近太夫利政と改名)
・主君頼芸を攻めてこれを追放し、国主の地位に就く(49歳)
というように、強引に美濃国の実権を手中におさめていった。
彼が土岐家に仕えてから、頼芸を追放するまで、わずか20年余りしかたっていない。
道三はこうして野望を達したのだが、その力にまかせたあくどいやり方に、当時の人々は「まむし」の名をつけて恐れたという。
斎藤道三は、才能と実力を発揮して一国の主にまでのしあがった、下克上の典型ともいえる戦国大名の一人であった。
ただ、恩人を殺し、主君を追放するというような彼の強引さが通用したというのも、美濃の国人たちが、なまぬるく無能な守護の政治を見捨て、新しい権力者の出現を望んでいたからかもしれない。
しかし、先の北条早雲に比べて道三の最期はみじめであった。
彼は、家督を嫡子義竜にゆずって隠居したのだが、その義竜と争い合うようになったのである。
しかもこのとき、道三のもとに集まった武士は2700余り、義竜の17000余りに比べて6分の1ほどしかなかったという。
彼のあくどさのため、心から慕う者が少なかったためなのだろう。
そして道三は、この戦いに捕えられ、鼻をそがれて首をおとされるという無残な最期をとげたのである。
『スーパー日本史』古川清行著より (要約一部加筆)
本人の努力により多芸多才に磨きをかけて、チャンスを強引につくり逃さずものにして
野望を実現する。なんか、書き換えれば現代版のドラマになってしまいそう。
ただ、道三の弱点は女でした。
守護土岐頼芸の側室を妻としたこと。
嫡子義竜の出生について良からぬ、余計な噂を耳にいれた人がいた、また、これを本人が信じたこと。
利害関係、勢力争い、渦が渦になり渦にのまれてしまった道三、ごくろうさんでした。