桓武天皇の意気込み
桓武天皇の意気込み
781年、44歳という働きざかりで即位した桓武天皇は、ただちに乱れた政治を改めることに手をつけた。
その第一は、優れた人材を登用し、問題のある中央・地方の官僚は厳しく処断することによって、律令政治を引き締めることである。
例えば、前に道鏡の事件にかかわって大隅(鹿児島県)に配流されていた和気清麻呂は、備前(岡山県)の豪族出身という身分であったにもかかわらず、後に記すような長岡京・平安京の建設に、その手腕をふるわせたが、それも彼の誠実な人柄と、優れた才能を見込んでのことである。
その一方、太宰師(だざいのそち 長官のこと)であった藤原浜成のように、「汝は、歴任した官職において善政の声を聞かない」という理由で処分され、員外師として実務からはずされてしまった者もいる。地方官僚としての国司に対しても、その監督を強化した。国司に関する成績評定の基準を再確認し、その基準に則して賞罰を明らかにしようとしたのも、その表れである。そのうち、「悪い国司」としては、「貪欲で不公平なこと、酒や遊びにふけって百姓の生活を乱すこと、一族の飼ってな行動を見逃すこと」など八カ条を挙げ、この一つにでも該当したなら解任することを決めている。このような措置が、ただちに効果をあげたわけではない。国司・郡司などによる糊塗(こと)や抵抗もあった。しかし多くの者は、「うっかりしてはいられないぞ」と気を引き締めさせられたのであった。
第二には、仏教興隆の流れに乗って、強大な力をもつようになった寺院や僧の勢いをおさえようとしたことが揚げられる。天皇はまず、
・霊験があるかのような所業をして、民衆をたぶらかしてはならない。
・僧侶の子が、親のおかげて出世することを許すな。そのような場合は、みな還俗させよ。
・破戒の僧尼や生業を営む者は、寺にはおくな。
などの命を次々にだして、僧尼の堕落を取り締まろうと努めた。
さらに、寺院の経済力をおさえ、その拡大をふせぐために、
・勝手に道場を建てることを禁止する。
・田畑・宅地などを寺に寄進したり売却したりした者は、厳罰に処する。
・寺院が高利貸しのようなあくどい方法で農民の土地を手にいれたりした場合は、その財貨は国が没収し、これを黙認した役人は解任する。
などの命を下した。
このほか天皇は、農民の苦しみを救うために、
・公出挙の利息を、五割から三割に減額する。
・雑徭の期間を、60日から30日に半減する。
・辺境を除く諸国では、農民を兵士にすることをやめ、代わりに郡司の子弟を選伐して「健児」とし、国衙(国司の役所)を警備させる。
などのことも実施している。このような施策だけをみても、桓武天皇がなみなみならぬ決意と実行で、政治の改革に当ろうとしたことがわかるだろう。