天正17年(1589) 摺上原合戦前後
天正17年(1589)摺上原合戦前後
5月4日
安達郡阿子島城へ御働きあり、城廻り御巡見有り、まず外城攻取り玉ふへき由仰られ、城主阿子島治部方より伊達成実を頼み、早速に外城攻めとられ頼みなし、城を明け渡し退くべし、願くば士卒の命を助け下された由を侘び奉る。即ち許容し玉ふ。成実家士遠藤駿河を城中に人質に差遣し、之を通達し、総人数を東ノ原(対面原)に引除け、伊達成実手勢ばかり除口の路次近くに相備へ、御目付十人許り横合のために附置く(下略)
5月6日
高玉へ御調儀に及ばれ、町曲輪取り敗り、其侭本城に取り入り、城主を始め三百余人討取り、女・童・馬・牛まで残なく、撫切(皆殺し)に仰付られ、隙を明けられる。高玉の城・言語道断、結構の地に要害、殊に城主の仕方とも比類なくて町構取破る迄は手固く持ちたる間、種々政宗自身みづから乗懸け、御働きにて攻崩す。隣国始め、磐城・相馬えの見せしめとして、一身の満足この事に思召さる(下略)
その夜は本宮に宿陣。
5月7日 政宗、大森城に帰城する。
5月18日 伊具郡金山城に入り、相馬氏の田村出馬の隙をねらう。
5月19日 政宗、相馬駒ケ峯城を攻略、つづいて新地城を攻め取り、守将を定める。
5月22日 政宗、大森城に帰る。
5月23日 片倉小十郎・伊達成実等大森城に参集。
5月28日 岩城常隆、田村郡門沢城を攻め落とす。
6月1日
伊逹成実、片倉小十郎の画策にて、三蔵軒を以って稲苗代盛国を説かしめる。盛国、芦名氏に反して伊達に組む。片倉小十郎は盛国の子亀丸を受取り阿子島に入れる。
6月2日
小十郎は阿子島より、伊達成実は人数を揃えて、ひそかに猪苗代に入る。坪下口警備の蘆名勢は盛国の言動を信じ黒川に戻る。佐竹義重・義宜父子須賀川に入る。
6月3日
政宗、阿子島に入城。佐竹義重・岩城常隆・芦名義広らが、中通りに展開中なので小十郎・成実は政宗の会津入りを無用と、使者布施備後をして書状を以って止める。政宗は小十郎・成実の意を見通して、ひそかに別の使者を途中に派遣し、政宗猪苗代に早々入城の要ありといわしめる。
布施備後、政宗の御前に、政宗の意の通り言上、政宗両人の書状を開封することなく直ちに出陣を命ずる。
午後4時頃阿子島出馬、総勢は坪下(壺下 つぼおろし)口を進み、政宗は近侍17騎と共に石筵口を越える。猪苗代の両人政宗出馬を信ぜざりしも、事実と知り急ぎ酸川野迄出迎へる。
午後8時ころという。総勢は御前零時頃までに猪苗代に到着する。
6月4日
夕暮れに及び芦名義広は、岩瀬より黒川に急ぎ戻り、そのまま出馬したが、軍勢夜になって漸く出陣して、富田将監を先陣として普(布)藤村の高森山を本陣として諸将を配備す。政宗は摺上原を見分した小十郎・成実の意見により猪苗代城を出て、八ケ森に本陣を構える。
6月5日
伊達勢の先陣は猪苗代盛国、二番片倉小十郎、三番伊達成実、四番白石若狭、五番旗本衆、六番浜田伊豆、その左人大内備前、右陣片平助右衛門の陣列を備え、まず富田将監と猪苗代盛国の兵が吹渡の地で戦いの幕を切る。
午前中は西風強く山上の伊達勢苦戦したが、午後は東風と変り、会津勢は戦い不利にて敗走する。伊達勢討取る首2500級以上と言い、「三千塚」として首を埋めた地を称している。敗走する芦名勢を追い黒川(若松)近く追撃したが、政宗はその夜猪苗代に帰った。
6月6日 金川・三橋・塩川・慶徳付近を制圧し、大寺野陣。
6月7日
政宗、三橋に在陣して居平を制圧、芦名方の諸将帰服し来る。佐竹勢のため、田村町大平城落城する。
6月9日 船引町門沢城、磐城常隆に攻め落とされる。
6月10日 葦名義広、黒川城を捨てて、白河を経て常陸佐竹家に走る。
6月11日 伊逹政宗が黒川城(会津若松)に入る。