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歴史ネタ帖

殺生石  ~九尾の狐(きゅうびのきつね)伝説~

那須  殺生石

殺生石の伝説

 鳥羽上皇が寵愛したという伝説の女性、玉藻前が九尾の狐の化身(妖狐)で、陰陽師の安倍泰成に見破られて東国に逃れ、上野介広常と三浦介義純が狐を追いつめ退治すると狐は石に姿を変えたという伝説があります。

その石が那須にあります殺生石です。

なぜ、殺生石と呼ばれるかというと、この石が毒を発して人々や生き物の命を奪い続けたため「殺生石」とよばれるようになり、至徳2年(1385)には玄翁和尚によって打ち砕かれ、そのかけらが全国に飛散したといいます。

えっ、もつと前、南北朝時代にすでに打ち砕かれていたということかな、その残りが那須の殺生石か、それならもっと大きかったのかもしれませんね。

 殺生石が飛散した先は日本の各地の「高田」という地名の3ケ所(諸説あり)一般には美作国高田(現、岡山県真庭市勝山)、越後高田(現、新潟県上越市の高田地区)、安芸国高田(現、広島県安芸高田)、豊後国高田(現、大分県豊後高田市)、会津高田(現、福島県会津美里町)のいずれかとされています。

 「高田」以外の地に破片が散ったとする伝承もあり、飛騨では牛榜種に、四国では犬神に、上野国にではオサキになったといいます。

 

 各地の殺生石にまつわるのもには、

化生寺 (岡山県真庭市)

 勝山地区は旧称を高田といった地で、玄翁和尚の開山による化生寺境内に、殺生石の石塚が存在している。

 

伊佐須美神社 (福島県会津美里宮林)

 旧会津高田町に鎮座する神社で、末社に「殺生石稲荷神社」を持つ。殺生石の破片が飛来しと伝わる。

 

常在寺 (福島県白河市表中寺)

 玄翁和尚の開山とされている寺院で、境内に殺生石の破片といわれる石が祀られており、玄翁の坐像と、殺生石の縁起を描いた絵巻「紙本着色源翁和尚行状縁起」が伝えられている。

 

真如堂 (京都市左京区浄土寺真如町)

 境内に安置されている「鎌倉地蔵」は殺生石から作られたという伝承がある。

 

その他

殺生石(大分県九重町)

 「朝日長者伝説」にまつわる史跡の1つ。かつて火山ガスを噴出し、付近で生き物がしんだという。

 

 

那須 殺生石の全景(那須温泉神社境内から)  

 

       松尾芭蕉の句碑

「飛ぶものは 雲ばかりなり 石の上」

と書かれています。でも、この句は、尾芭蕉門下の「麻布」という人が詠んだ俳句で、殺生石はかつては有毒の『硫化水素蒸気ガス』が今以上に漂っていたために、殺生石の上には鳥も飛ばないということを詠んだものです。

 

なぜ、芭蕉の句として刻まれているのかは不明です。

殺生石の雰囲気でているからかな?

 松尾芭蕉が詠んだ句

「石の香や 夏草赤く 露あつし」

殺生石の石は硫黄の香りがして、緑したたるはずの夏草が赤く枯れ、涼しいはずの露が熱く沸騰している様を松尾芭蕉が詠んだのです。

  やはり、硫黄の強いにおいと、夏草が枯れている様子、露も沸騰している様子を

  これだけを俳句に纏めるなんて芭蕉の観察眼するどい、

 「のをよこに うまひきむけよ ほととぎす」

こちらの句は、芭蕉が馬子に所望されて詠んだ句と言われています。

野原を進んでいくとホトトギスの鳴き声が聞こえる、そちらに馬を向けてください、という意味です。

ええっ、なんかそつけないじゃんか。

馬方さんの要望に応えただけでも偉いのかもしれませんが、

馬方さんに分かりやすい簡単な内容の俳句にしたのでしょうか?

ちなみに、曽良が詠んだ句は、

 

「かさねとは 八重撫子の 名成べし」

「かさね」というかわいい名の小姫との出会いを、花に例えたら八重撫子のようだと、

そんな気持ちを弟子の曾良が詠んだ句です。

 

教伝地蔵                         盲蛇石

 

那須 温泉神社(ゆぜんじんじゃ)

那須といえば、那須与一(なすのよいち)が有名です。

 私だけかな?

那須余一(与一)は那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生れ、十一番、十あまり一で余一と命名されました。(後に与一に改名)

源義経の東国参陣の時これに従い、以後義経の騎下となって源平戦を戦ったのでした。

有名な屋島の戦いで扇の的を射て名声を上げ20万石を頼朝公から賜わっています。

源氏と平家の「屋島の戦い」で、那須与一(なすのよいち)が敵船上に揺れる扇の的を射当てる際、

「南無八幡大菩薩、別にしては我国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願わくば、あの扇の真ん中射させてたばせ給え」
と祈念したそうです。

「平家物語」にはこのように記載されています。

『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え・・・』と、

凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進してその誠を表わし、その他鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇を奉納しましたのです。三番目の鳥居も余一が奉納したものです。(よく見てこなかったのが残念、こんな有名人が奉納した鳥居があるだけでもすごすぎです。)

余一は不幸にして24歳の短命で世を去りましたが、那須氏は代々厚く温泉神社を崇敬して慶長年間に至りました。

 

 

 

 

九尾の狐(きゅうびのきつね)

九尾の狐(きゅうびのきつね)または九尾狐(きゅうびこ)・九尾狐狸(きゅうびこり)は、中国に伝わる伝説上の生物。9本の尾をもつキツネの霊獣または妖怪である。

中国の各王朝の史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが泰平の世や明君のいる代を示す瑞獣とされる。『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた神獣であるとされる。

また、物語のなかでは殷の妲己や日本の玉藻前のように美女に変化して人々の世を惑わす悪しき存在の正体であるともされ、よく知られている。

 

中国での九尾の狐についての記述の古い例には、『山海経』(南山経)での九尾狐が挙げられる。外形は狐のようで、尾は九本。鳴き声は嬰児のようで、よく人を食う。(この獣を)食べた者は蠱毒(あるいは邪気)を退ける」という記述がある。『山海経』では他に海外東経・大荒東経に名称の記述がある。人を食べるという箇所があるが、霊験として辟邪の要素を付与されており、瑞獣としてあつかわれている

『白虎通』では、時の皇帝の徳が良いと世の中に現われる瑞獣の一つとして記されているほか、「九」という数字は子孫繁栄を示しているともあり、陽数を持った瑞兆を示す霊獣であるとしている。

 

武王を主役にした物語『武王軍談』、あるいは『封神演義』などの小説、その源流となった元の時代の『武王伐紂平話』や明の時代の『春秋列国志伝』などでは、殷王朝を傾けたとされる美女・妲己の正体が九尾の狐(九尾狐、九尾狐狸)であるとされている。これらの物語あるいはそれを下地とした書物での記述が、後の時代には漢文圏で広く知られるようになった。

 

清の光緒年間に書かれた酔月山人『狐狸縁全伝』(1888年)にもこれを踏まえた九尾狐が登場し、千年修行すると尾が一本増え、一万年修行をすると黒かった毛が白くなるとされている。

 

日本でも九尾狐は瑞獣とされていた。『延喜式』の治部省式祥瑞条には「九尾狐」の記載があり「神獣なり、その形赤色、或いはいわく白色、音嬰児の如し」とある。

 

一方、日本では邪悪な九尾の狐の妖怪として玉藻前の登場する物語が有名である。

平安時代に鳥羽上皇に仕えた玉藻前という美女の正体が「狐」であったという物語は、14世紀に成立した『神明鏡』にすでに見られる。

 

しかし、室町時代の『玉藻物語』などでは尾が2本ある7尺の狐]であると描写されており、九尾の狐とは語られていなかった。

 

玉藻前が「九尾の狐」であるとされるようになったのは妲己が九尾狐であるという物語が玉藻前の物語に取り入れられるようになった江戸時代以降のことであると考えられる。

 

玉藻前の正体が九尾の狐であるという設定の物語を日本に定着させたのは、読本作家の高井蘭山が著した読本『絵本三国妖婦伝』(1803年~1805年)や岡田玉山『絵本玉藻譚』(1805年)などの作品である。

一方、おなじく読本作家であった曲亭馬琴は『南総里見八犬伝』において善玉である九尾の狐「政木狐」を登場させている。

 

馬琴は玉藻前に代表される九尾の狐を悪玉であるとするイメージは『封神演義』などの物語に影響された近年のものであるとして退け、史書などを活用し、九尾の狐は元来瑞獣であるという考証を作品や随筆のなかで展開している。

 

馬琴のように、九尾の狐は本来は神獣で、物語の上で悪い狐であると語られるのは俗説・荒唐無稽な創作である、という論考はそれ以前からもたびたび学者や文筆家などが指摘をしている。

 

 

那須温泉神社です。 

 温泉神社本殿脇に、九尾稲荷神社がありますので、一緒に参拝してもいいでしょう。

 

駐車場からみた殺生石方向です。

 山の谷にありますが、意外に爽やかな場所でした。

 

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