大陸征服の夢 ~豊臣秀吉~
大陸征服の夢 ~豊臣秀吉~
1591年9月、秀吉は諸大名に朝鮮出兵の準備を命じた。と同時に、黒田長政・小西行長・加藤清正など子飼いの大名に銘じて、出兵基地と定めた肥前(佐賀県)の名護屋に築城をはじめさせた。このころ秀吉は、すでに九州・関東・東北の平定を終え、国内に刃向う者はいなくなっていた。
しかし、彼が朝鮮・明の征服を計画したのは、もっと前のことである。実は九州平定も、大陸進出の足がかりをつくるのが、重要な目的の一つであったらしい。その証拠に、毛利輝元に九州出兵の準備を命じたとき、「いずれは明(中国)にまで兵を出すつもりだ」と告げているのである。さらに九州平定の後には、朝鮮に対して服属を呼びかけ、聞き入れなければ出兵するとの脅しもかけている。しかし、その交渉は、思うようには進んでいなかった。そこで、そのかねてからの計画を実現するために、先の命令を出したのである。こうして無人の地であった名護屋には、たくさんの人夫が集められ、石材や材木の運搬も盛んになった。そして、わずか五か月余りの間に、巨大な城が築かれていった。そこへ、各地から動員された武将や兵士が到着する。その数は、16万の第一次遠征軍、会場の警備と輸送に当たる九千人の水軍、予備軍としての10万人という、かつてない大規模なものであった。おそらく名護屋城前面の海は、大小の船で埋めつくされたことだろう。
秀吉の死
文禄・慶長の役の失敗は、秀吉をいからせ、また気落ちさせた。
それも、もとになったのだろうか、病の床にふせるようにもなった。
その病の床にある秀吉にとって、何よりも心配なのは、わずか六歳の跡継ぎ秀頼のことであった。
「もし自分が死んでしまったら、秀頼はどうなってしまうのだろう」
「大名たちが秀頼をおしのけて、天下をわがものにしてしまうのではないか」秀吉の心配は、つのるばかりである。
「せめて秀頼が15歳になり、大名たちがねその秀頼にかじずく姿をみたかった。しかし、今のままでは、その願いもかなうまい。くやしいことだ」と、涙を流すことも多かった。
死が間近いことをさとった秀吉は、次のような遺言を残した。
「くれぐれも秀頼のことを、おたのみします。五人のしゅ(衆)よ、おたのみします。たのみます。くわしいことは五人の物に燃え氏わたしました。
秀頼が、りっぱにやっていけますように、この書付に書いたしゅ(衆)におたのみします。なにごとも、ほかには思い残すことは、ありません」
くどいど、秀頼のことを心配している遺言である。
なお、この五人の衆とは、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の五大老、五人の物とは、石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家の五奉行をさしている。
また、幼いころからの友達である前田利家(加賀国の大名)が訪ねてきたときには、その手をおしいだいて、「大坂にいる秀頼を守ってくれよ。くれぐれもたのむ」と、繰り返したのんだという。
こうして秀吉は死んだ。
そして、時代の流れは、秀吉の死をきっかけとして、また大きく変わっていくことになったのである。