福原遷都と各地の反乱
平氏打倒ののろし
1180(治承4)年の春4月、平清盛は、長い間の望みをやっと果たし、喜びの絶頂を味わっていた。このとき、高倉天皇が退位して上皇となり、清盛の娘、徳子が生んだ言仁(ときひと)親王が、3歳の若さで即位(安徳天皇)したのである。すでに、平氏一門はそれぞれに高位高官に昇り威勢を誇っている。それに加えて新天皇を擁した清盛が、「これでこそ平氏の未来は万々歳」といっそうの満足感にひたったことは、無理もなかった。
しかし、「盛者必衰」は世のならいでもある。この年は、その満足感とは裏腹に、平氏の勢いが下り坂をころげはじめた年でもあった。
そのきっかけになる出来事は、同じ4月にもう現れている。朝廷での従三位という位を与えられていた源頼政が、後白河法皇の皇子で以仁王ち相談「平氏を討て」という命令を諸国の源氏につたえたのである。
このころ、安徳天皇をいただいて平氏安泰を誇っていた清盛の喜びをよそに、人々の、平氏一門の横暴に対する反感は急にたかまっていた。源頼政は、その反感をはっきりかんじとっていたし、頼政自身も、平氏いちぞくから心ないあつかい方をされ原をたてていた。
一方、以仁王も、後白河方法の皇子として生まれながら、母の身分が低かったこともあって、重要な地位に昇ることができず、不満の心が強かった。
この2人が力を合わせて、平氏に反感をもつ者をあつめようと考え、平氏打倒ののろしをあげたのである。
しかし、以仁王と頼政のくわだては失敗した。謀反のくわだてを知った平氏の軍に追い詰められ、頼政は、宇治の平等院で自害し、以仁王もまた平等院から逃れる途中、流れ矢に当たって戦士した。
こうして2人の首謀者は、その志を果たせないうちに死んだ。けれども、その死は決してむだではなかった。以仁王の命令は、源行家の手によって諸国の源氏に伝えられ、平氏打倒の声が全国に高まることになったからである。
福原遷都と各地の反乱
そのころ、平清盛は、その評判をいっそう悪くするようなことを行った。
4月30日、清盛は突然、「都を福原(神戸市兵庫区)に移す」と発表したのである。都の人々にとって、これは寝耳に水の話であった。
清盛はここに立派な兵庫港を築き、宋(中国)との貿易を盛んにしようとしていた。また、清盛をはじめ平氏一族も、このあたりに別荘をつくっていた。しかしここは、うしろには六甲山脈がせまり、前は瀬戸内海が広がるという狭い平野の地である。もちろん、奈良や京都のような広い都をつくることはできない。
それなのに都を移そうとしたのは、
〇ここを都として、宋との貿易を盛んにしようとした。
〇延暦寺などの僧兵がうるさいので、それから逃れようとした。
などの理由によるのだろうといわれている。
奈良の焼き討ち
福原の都の評判は、悪くなる一方であった。清盛の次男の宗盛、妻の兄の時忠なども、「早く京都へ帰った方がよい」と反対するほどであったという。
それにくわえて10月には延暦寺の僧兵たちが気勢をあげ、「福原の都をやめよ。もし、この要求を聞き入れないなら、山城(京都府)・近江(滋賀県)の両国を占領するぞ」と申し入れてきた。
さらに、この申し入れがきっかけになったのであろうか、清盛と宗盛とが、京都へ帰るかどうかについてはげしく言い争い、人々を驚かせたという話も伝えられている。
このような状態の中で清盛は、ついに福原の都を捨てて、京都に帰ることを決心し、11月23日には、「都をもとの京都へ移す。この福原には一人ものこってはいけない」という命令を出した。
この命令は、貴族たちはもちろんのこと、福原へ移り住んでいた人々をたたいへん喜ばせた。しかし、人々の反対をおしきって福原へ都をうつしながら、半年もたたないうちに、またもとへ戻るというのでは、平氏の評判が落ちるのは無理もなかった。
案の定、平氏に対して正面から対抗しようとする者が増えた。延暦寺の僧兵は、源氏に味方することをはっきり表明したし、奈良・興福寺の僧兵も、「関東の源氏が攻めのぼつてきたら、自分たちもこれといっしょに京に攻めこむのだ」と準備をととのえた。そのほかにも、平氏にそむき、戦いをしばめる武士が各地にふえた。
「方丈記」 鴨長明が記す福原遷都
「(福原は)と血が狭くて、道路を計画通りにつくることもできない。波の音はうるさくて、潮風ははげしい。内裏(天皇のすまい)も山の中につくるありさまでいる。その福原へも、京都から移り住んでくる人たちがいる。家を解体して筏に組み、ここまで運んでくる人も多い。近くの海岸に荷上げし、再び組み立てるのである。そのため、賀茂川や淀川は、ひどく混雑するありさまであった。それでも、都はまだできあがらない。一方、京都はさびれるばかりである。」
6月になって、清盛が遷都を強行したとき、都はまだできあがつていなかった。宮殿もほとんどが未完成で、儀式なども満足に行えない状態であったという。いやいやながら福原へ移った人々の間には、いっそう不満が高まっていった。内裏の柱にかきつけられたという次の歌にも、それがよく現れている。
さきいづる 花の都を ふりすてて
風ふくはらの すえぞあやうし
(花が咲きでたようにはなやかな京の都をふりすてて、福原に移るというけれども、この風が吹き通る福原の都では、これからのことがおもいやられるなあ)
その一方で、混乱のつづく福原の都へは、「関東で、源頼朝が兵をあげたそうだ」という噂が伝わってきた。かつて平治の乱のとき、清盛によって伊豆(静岡県)へ流された14歳の少年が、いま30歳をこえ、平氏打倒のために立ち上がったというのである。
さらに9月になると、木曽(長野県)の山中で育った源義仲(木曽義仲)が、同じく平氏打倒の旗揚げをしたとという知らせが届いた。そればかりではない。熊野からも、筑紫からも、平氏にそむく武士があらわれたという知らせがきた。
以仁王の命令は、全国的に反乱を起こすきっかけになったのである。