文明開化と過激
文明開化と過激 ~伝統文化をこわした人たち~
旧弊のひとたちとは反対に、「世の中は新しくなったんだ」「古いものは、もういらないんだ」と、古いものをすべて打ちこわしてしまおうとする人々もいた。
1870年(明治3)、熊本では、藩知事みずからが、「城はもう時代おくれで、役にたたない飾りもののようなものです。この地域には、また古臭いしきたりが残っていますから、それを取り除いてしまうためにも、城をこわしてしまいたいと思いますが、どうでしょうか」
と、政府に願い出たほどであった。
おなじようなことは、名古屋でもその他の地域でもみられたことである。また、城ばかりでなく、神社・寺・松並木・石仏・蒔絵の器など、さまざまなものを打ちこわし、捨て去ってしまおうとする動きも、各地で起こっていた。
そのような情勢の中で、能・歌舞伎・日本画など、古くからの伝統をもつ日本文化が、急にすたれていった。いずれも、古くさいからというのである。
室町時代の有名な画家である雪舟や狩野元信のような人々の絵までが、二束三文の安値でうられたというのだから、明治の芸術家たちの多くが貧乏のどん底におちこんでしまったのも、当然なことであった。
こうしたこともあって、古くからつたえられた絵や品物などは、外国へどんどん流れていってしまったのである。
文明開化と保守
政府は文明開化を進め、街の様子にも、暮らしぶりにも、西洋風の文明をいきわたらせようとした。けれども、すべての国民が、この文明開化をただちに受け入れていったわけではない。古くからのしきたりを守ろうとしたり、それにとじこもって、「旧弊」と呼ばれた人々もたくさんいたのである。
旧弊の人たち
例えば、電線の下に来ると、ちょんまげ頭に扇子をかざし、急いで通り過ぎて行くひとたちがいた。西洋のものの下を通るのはけがらわしい。それに何か悪いものが降ってくるかもしれない、というのである。また、「ランプを使うのは国を滅ぼすものだ」と、ランプ亡国論をとなえる人もいた。
また、それまでの太陰暦(ただしくは太陽太陰暦)に代わって太陽暦が使われることになり、明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることになったが、農村の人々の多くは、太陽暦には見向きもしなかつた。太陰暦は、農業と深く結びついて用いられていたので、太陰暦によらなければ、仕事がうまく進められなかつたからである。
このように、同じく旧弊とはいっても、気持ちの上で文明開化に反対した人もいたし、実生活の必要から昔ながらのやり方の方が便利だという人たちもいたのである。
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