最初の戦国大名
☆伊最初の戦国大名 勢新九郎長氏の登場
1469年(文明1)、つまり応仁の乱がはじまってから2年ほどあとのこと、東海道を東へ東へと進んでいく七人の男たちがいた。
荒木兵庫頭(あらきひょうごのかみ)、多目権兵衛(ためごんべえ)、山中才四郎(やまなかさいしろう)、荒木又次郎(あらきまたじろう)、大道寺太郎(だいどうじたろう)、在竹兵衛尉(ありたけひょうえのじょう)、そして伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ・・のちの北条早雲)の七人である。
彼らは、この旅にでるにあたって、神前に祈り、神水をのみかわして、次の二つを誓いあったという。
・この後、たとえどんなに苦しいつらいことが起こっても、七人は固く団結し、いつまでも仲良く暮らしていこう。
・もし、この七人のうちで、最初に一国を治める地位にのぼる者があったら、あとの六人はその家臣となって、真心をもって仕えるようにしよう。また主君になった者は、六人の家臣を生涯見捨てることなく、大事にしていこう。
七人の男がめざしていたのは、駿河国(静岡県)の守護大名今川義忠のもとであった。
ここには一行のうち伊勢新九郎長氏の妹がいる。しかも、今川義忠の妻(側室)という、まことにたよりがいある地位にあったのである。案の定、新九郎の妹北川殿は、彼らを暖かく迎えてくれた。ときに新九郎は四十歳余り。色浅黒く、眼光鋭かったといわれる彼は、こうして一応、安定した生活をえるようになったのだが、しかし、そんな生活に満足するような男ではなかった。
「いずれ、一国を治めるようになったときは・・・」という望みを決して忘れてはいなかったのである。最初のチャンスは、駿河国へついてから、8年あまりたったときにやってきた。実はそのころ(1476)に今川義忠が死んだ。義忠は、将軍足利義尚(あしかがよしひさ)の命を受けて遠江(とおとうみ 静岡県)の武士を征伐しに出かけたのであるが、その帰途、流れ矢にあたって命を失ったのである。ところが長男氏親(うじちか)はわずか七歳でったため、跡継ぎをめぐって争いが起こった。
この争いをしずめるためには、当時関東地方の東部一帯を治めていた堀越公方足利政知(あしかがまさとも)が、上杉政憲(うえすぎまさのり)・太田道灌(おおたどうかん)という2人の武将を遣わしたほどであった。しかし新九郎は、その武力介入をしりぞけ、両派の武将たちを説得するなどしてたくみにこの争いをおさめ、「今川氏に伊勢新九郎あり」の名を高めたのである。さらにそれから10年余りたち、今川氏親が17歳になったときには、氏親を領主におしたててその信頼を深め、興国寺城主にも任ぜられた。
1491年(延徳3)、新九郎60歳のとき、ついに「一国を治めるようになりたい」という彼の望みがかなえられるときがきた。この年、堀越公方足利政知が死んだのをきっかけに、御所の中に争いが起こった。これを見た新九郎長氏は、たたちに兵を率いて伊豆国(静岡県)へ攻め入り、この国一帯を平定してしまったのである。
記録によると、このころ新九郎長氏が従えていた武士は、2.300人ほどであったという。ところが、伊豆へ攻め入ったときの兵の数は、それよりもずっと多かったらしい。このことについては、新九郎の出陣を聞いた領地の農民たちが、続々と集まり、「どうか私たちもつれていってください。ご家来の武士たちと同じように、私たちは、新九郎さまのご恩を身に染みて感じております。殿様を一国の主にすることこそ、私たちの願いでございます。そのためには命を捨てても惜しくはございません。」興国寺城主としての彼が、年貢の取り立てをゆるやかにするなど、農民のためを考えた政治をしたからこそ、このようなことが起こったというのである。
「領民のことを考えた政治」は、新しく平定した伊豆国においても、次のような形であらわれた。
伊豆国に侵入した新九郎は、まず次のような高札を立てた。
「伊豆国の侍・百姓は、ただちにわがもとにきて味方になれ。そうすれば、おまえたちが持っている田畑・治めている土地は、すべてこれまでどおりおまえたちのものとして認めよう。
しかし、もし申し出てこないならば、田畑をあらし、家は焼き払ってしまうが、どうか・・・」
新九郎の命令は、さらに続く。
・空き家にはいり、諸道具を盗んではならない。
・たとえ少しのお金であっても、盗み取ろうとすることは、固く禁ずる。
・伊豆国の侍や農民は、その領地や住まいを捨てて、他へ移るようなことをしてはならない。
これらの命令は、伊豆国を平穏な土地にしようとする気持ちのあらわれであった。
その気持ちは、次のような高札の言葉にも現れている。
「・・・前々から、この国の侍は思い年貢を取り立てるため、農民は生活に苦しんでいると聞いている。これからのちは、年貢はとれ高の十分の四(四公六民)とし、それ以外は、たとえわずかなものでも取り立ててはいけない。もし、この命令にそむく侍がいたら、百姓はただちに申しでよ。その侍からは、すぐに領主としての地位を取り上げてしまうことにする」
この命令を聞いた農民は、声をあげて喜んだという。
そればかりか、他の国の百姓までが、「うらやましいことだ。私らの国も、新九郎様が領主になればよいのに・・・」と語りあったと伝えられている。
このような姿は、土一揆がおこったような地域での、領主と農民との関係とは大変違っている。
そこでは、「なるべく多くの年貢を取り立てさえすればよい」というのが領主の考えであったが、ここでは、領主は農民を思い、農民は領主を慕うという結びつきが生まれている。そして、「これこそが新しい領主の心構えなのだた」というのが、新九郎長氏の考えだったのである。
新九郎長氏は、このようにして伊豆国の侍と農民をしっかりおさえた。名もない身分の者でありながら、その才能と実力で頭をもたげ、ついには一国の領主となる。そして、国中の侍と農民を意ってにおさめて政治を進めていく。このようなことは、それまでにはあまり見られなかった。
伊勢新九郎長氏は、まもなく出家して、「早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)」と名乗ったので、のちの人は彼を北条早雲と呼びならわしている。そして彼が最初の戦国大名とよばれるのも、このようなやり方が、それまでにないものだったからであった。
☆時代の流れをくみ、システム化(年貢四公六民)、どこを抑えれば地位が盤石なのか(農民と地侍の心をつかむ・・・利益を与える)、高札を立てて(治安維持)規律を示す。
昔から、≪泣く子と地頭には勝てぬ≫といわれているからね。
収奪が農民の生活を脅かしていたので、税の明確化が喜ばれた。
年収1億円ある人の8%と、年収200万円の8%の意味合いが違う。
というより、もっときつかったのかも、労役もあっただろうし。
成功のポイント
1、目標をはっきりもっていた。
2、仲間がいた。
3、自分の利益のみを優先させていたのではない。
まむしの道三は、北条早雲が死んで間もないころに美濃国で野望を募らせていた。後に美濃国を治めることになるが、無残な死を迎えている。
この違いは、2と3の違いかな?