西南戦争 ~戦いとその結末~
高まる士族の不満 ~神風連の乱~
旧肥後藩であった熊本県には大きくわけて3つの党派があった。
1つは、学校党とよばれた藩校時習館の出身者、旧藩の上士を中心とした士族たちで、これが最も多かった。
1つは、洋学党で、開明的な人々が集まっていた。他の1つは、敬神党(神風連)とよばれた人々である。彼らは国学の影響を強く受け、狂信的なまでの攘夷主義者で、明治も7年になったこのときでも、ちょんまげを結い大刀を携え、江戸時代と同じようにふるまっていた。
1876年(明治9)、廃刀令がだされると、神風連の人々の憤慨は一挙にたかまった。その指導者であつた太田黒伴男(おおた くろともお)は神官であったが、神前でくじを引き挙兵をきめたという。
鉄砲などは夷狄(いてき)の武器だというので、刀や槍だけで武装した人々は、熊本県令や熊本鎮台を襲った。
政府と鹿児島の対立
西郷のまわりには、桐野利秋・篠原国幹・村田新八ら、もと政府の高官があつまっていた。彼らは、西郷とともに政府の役職をほうりだして故郷に帰り、西郷を助けていたのである。
しかし西郷自身は、政府に反抗しようという気持ちなど、持っていなかったらしい。秋月の乱・萩の乱などが起こっても、西郷は、「今こそ彼らとともに立ち、政府をこらしめてやりましょう」といきりたつ士族たちをおさえて、戦いに加わることをゆるさなかった。
ところが政府の方は、この鹿児島の様子がきになってならない。政府の命令を聞かないということについての不満が強いのは、もちろんだが、「もしかすると、西郷が鹿児島の士族を率いて政府に反抗するのではないか」という心配もあった。
また大久保利通などは、「ほかのことにはひどくきびしてあなたなのに、鹿児島のことになると、思い切った手を打たないのはなぜか。あなたは薩摩出身だから、西郷らのやり方を見逃しているのではないか」と、周りの者から攻められるありさまであつたという。もちろん大久保も、ただ黙ってみていたのではなかった。「今のうちに何とかしなければ、政府の維新にもかかわるし、全国を新政府のもとに統一することはできない」と考え、鹿児島県をおさえるための手をひそかに打っていた。また陸軍省は「もし西郷が反乱を起こしたら・・・」と心配し、政府が鹿児島県にたくわえておいた武器や弾薬の一部を、大阪に運ばせたりした。
川路利良 ~西南戦争の直接の原因をつくった人~
川路利良は、薩摩藩の下級武士の出身でした。
1836年(天保7)~1879年(明治12)
1872年(明治5)邏卒(らそつ)総長になり、外国の警察制度視察のためにヨーロッパに派遣され、帰国後は日本の警察制度の整備につとめた。
1874年(明治7)、東京警視庁ができると、その大警視(長官)として警察官の指導、育成にあたり、さらに西南戦争の時には陸軍少将として警察官で組織された別動旅団を率いて参戦、大活躍をした。
なお、西南戦争の直接の原因となった薩摩藩出身の警察官を帰国させ、西郷の身辺を探らせたのは、この川路である。
西南戦争が始まった。
政府と鹿児島県との対立はしだいに強まってケいったのであるが、1877年(明治10)2月3日、私学校の生徒が、政府から派遣された中原警部らをとらえた事件をきっかけに、ついにその対立が火をふくことになつた。
このころ大久保利通は、鹿児島県の様子をさぐらせ、さらに私学校の仲間にはいらないように人々を説得するために、十数人の警官をおくりこんでいた。中原警部もそのひとりてであるが、私学校の生徒が中原をとらえて厳しく拷問したところ、彼は、「自分たちの目的は、私学校の力をそぎ、西郷を暗殺することである」と白状したというのである。
私学校生徒たちの怒りは、その頂点に達した。
「西郷先生、今度こそ立ってください。このままでは政府のために先生が殺されてしまいます。もし先生が立たないのなら、私たちでも政府に対する戦いを起こします。」
この私学校生徒の声に、西郷もついに決心した。そして「しかたあるまい。私の命はあなたがたにあずけよわう。あなたたちの思うようにしなさい」という言葉が、みんなに伝えられることになった。こうして西南戦争がはじまったのである。
西南戦争 ~戦いとその結末~
2月15日、この地方には珍しい大雪の降る中、西郷率いる1万3千人の軍は、鹿児島をたってきたに向った。
「西郷立つ」の知らせを聞いた各地の士族は、我先にとこの軍のもとに集まり、その数は、わずかの間に3万にふくれあがったという。
ところが西郷軍がまずめざした熊本城は、たやすく落城しなかった。「城を守るのは、農民や町人を中心にした徴兵の軍ではないか。あの土百姓らに何ができるか」と、一気におしつぶそうとしたのだが、城の中の兵は、司令官・谷干城(たに かんじょう)の指揮のもとに、実に勇敢に戦うのである。しかも彼らの持つ兵器は、西郷軍よりよほどすぐれている。ついに50日余りの間、彼らは熊本城を守りぬいた。一方政府は、西郷挙兵の知らせを受けるとともに、ただちに有栖川熾仁親王を征討総督、陸軍中将山県有朋を征討参軍に任じるとともに、征討軍を出発させた。
西郷軍の戦いぶりもめざましかったのだが、なにせ人数の面でも武器の面でも政府軍の方が上である。あるいは戦死し、あるいは傷つき、その勢いはしだいに弱まっていった。そして9月、やっとのことで鹿児島にたどりついた西郷軍は、わずか300余りしかいなかったという。
西郷もまた、股の付け根のところに弾丸があたって、自分の力ではあるくことができなくなっていた。別府晋介(べっぷ しんすけ)に背負われて城山についた西郷は、「晋どん、ここでよか、「という言葉を残し、切腹してみずからの命を絶った。
この西郷の死とともに西南戦争はおわったのである。これは政府に対する武力での反抗の最後でもあった。また、このころ最強といわれた鹿児島の士族の軍が、徴兵の軍に敗れたということは、士族の、つまり武士の終わりを、人々につくづくとかんじさせたのであった。
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