鵺(ぬえ)の説話 ~源頼政が退治した怪鳥~
鵺の説話
鳥の類ではなんといっても鵺だろう。ときどき内裏の上空に現れ、帝を病気にしていたのである。この鳥は子の刻過ぎに現れた黒雲の中に潜む魔物であった。『平家物語』などには平清盛や源頼政が対峙したというエピソードが載っている。どんな姿かというと、頭は猿、尾は狐、足は狸、鳴き声は鵺であったとある。これを普通鵺というが、鳴き声が鵺であると記されていることから、『善庵随筆』に説かれるように、頼政が退治したのはそれ自体ではなく、名称不詳の怪鳥ということになる。とはいえ空を飛び、翼をもつこの妖怪を、古来、怪鳥として捉えてきた。
源頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出して従三位に叙せられ、後世においても、源三位(げんざんみ)の通称が伝わる(同時代的に「源三位」と称された人物は頼政に限らない。)。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。
保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。
頼政は以仁王を逃すべく平等院に籠って抵抗するが多勢に無勢で、子の仲綱や宗綱や兼綱が次々に討ち死にあるいは自害し、頼政も辞世の句を残し渡辺唱の介錯で腹を切って自刃した。享年77。
辞世の句
埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける
— 『平家物語』 巻第四 「宮御最後」
以仁王は脱出したが、追いつかれて討ち取られた。以仁王と頼政の挙兵は失敗したが、以仁王の令旨の効果は大きく、これを奉じて源頼朝・義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承・寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる。
皇太子時代に京都に滞在中宇治を訪れた大正天皇は『遊宇治』という漢詩にて「宇治の地で最も素晴らしいのは平等院鳳凰堂の威容でありここで自刃した源頼政の辞世の歌は心を動かす」と詠んでいる。
頼政の末子の広綱や、仲綱の子の有綱・成綱は知行国の伊豆国にいたため生き残り、伊豆で挙兵した頼朝の幕下に参加している。
※以仁王は、教科書に必ず出てくる人物ですね。源頼政の名を忘れてました。
源頼政は、保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まったというので、何か鵺を退治してもおかしくないパワーを持った人だったように思えます。
時代の変換期に現れ、時代が変わるきっかけをつくった人物。
源頼政 怪物を仕留める
源頼政の一族は、もともと摂津に住み着いた源氏で、源頼光の子孫にあたる。東国の源氏とは親しみがなく、むしろ平氏と仲がよかった。頼政が従三位にのぼったのも、平清盛のお蔭といわれているほどである。しかし、それだけに平氏からばかにされることがあったらしい。
立江場、頼政の長男仲綱は、木の下栗毛という名馬を大切にしていたが、清盛の子宗守に無理に譲り受けた宗守はこの馬を「仲綱」と名付け、「仲綱に鞍を置け」「仲綱を引き出せ」などと大声で呼ぶありさ様であった。
頼政については、つぎのような話も伝えられている。「二条天皇が病気になったときのことである。どうも病気の原因は内裏の上を覆っている黒雲にあるらしいということになった。弓の達人ともいわれた頼政が、その黒雲に向って矢を射たところ、頭は猿、胴体は虎、尾は狐、足は狸で鳥のように鳴く怪物を仕留めた。このため、二条天皇の病気はたちまちよくなった。