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歴史ネタ帖

戦国大名の政治

戦国大名の政治

戦国大名の中には、もと守護であった者もいるが、国人・地侍という低い身分から勢力を伸ばした者も少なくない。

しかも国内の武士たちをおさえるとともに、まわりの国の武士たちも従え、さらに農民・商人・職人たちまで、すべてを支配するようになっていったのが、戦国大名というものなのである。

ところが、国内の武士たちは、かつては同じ守護につかえた仲間であり、同格であった者も多かった。

武力で討ち従えた武士の中には、うらみをもつ者がいたにちがいない。

それに多くの農民や商人などの中には、かつての領主、まり公家や寺社などを相変わらず尊んでいる者もいた。

これらの人々をどうやって治めていくか、謀反を起こしたり犯行したりさせないために、どうしたらいいか・・・・これらは、大名たちの大きな悩みであった。

 

家臣を統制するために

さまざまな家臣を統制するためには、いくつかの方法が考えられる。

1.やさしい思いやりで接し、心からなつかせること。

2.厳しい取り締まりをして、そむけないようにすること。

3.すべての武士を、もともとの領地・農民からきりはなして、力を弱めてしまうこと。

などが、その主なものである。

関東に力を伸ばした北条早雲は、「自分は領地などいらない」といって家臣に土地を分けてやったというが、これは(1)のやり方のあらわれとみることができる。

しかし、思いやりばかりでは、多くの武士を従えてはいけない。

広い領地をもった武士は、しだいに力をたくわえて、大名にそむくようになるかもしれないからである。

そこで多くの大名は、(2)(3)などの方法をとった。

 

大名の家臣の中には、親戚の者(一門)、古くからの家臣(譜代)、新しく従った者(外様)など、さまざまな武士がいた。大名は、一門や譜代を中心に、家臣を統制する仕組みをつくるようになっていった。一門や譜代を寄親とし、外様などの武士を寄子としてそれに従わせたのも、その例である。寄親は、戦いのとき寄子を指図するだけでなく、平常の生活でも、寄子を厳重に監督した。しかし、寄親と寄子が主従関係のちぎりを結ぶことは、固く禁じた。寄親・寄子が強く結びつき、大名にそむくのをおそれたからである。

 

~ 分国法 ~

大名たちは、それぞれの国内政治のよりどころとなる法律を作った。

これを分国法・家法・壁書などとよんでいる。

これらには、節約せよ、文武にはげめ、結婚するときには、許可を得なければならない。

けんかをしてはならない、もしけんかをしたときは、両方とも成敗する、などをはじめ、さまざまな決まりが記されていた。

戦国大名たちは、領国統治のために、領内だけに通用する法令をつくった。

基本的には鎌倉時代の御成敗式目がもとになっており、必要に応じてさまざまな事柄が加えられたものが多い。

朝倉敏景十七箇条 ・・・ 越前朝倉氏の家法。

                                     人材の途用、家臣団の城下集住などが規定されている。               

 塵芥集 ・・・ 奥州伊達氏のつくった分国法。
        農奴に関する規定などが特色。

今川仮名目録 ・・・ 駿河の今川氏の分国法。
           16世紀に氏親が定め、義元が追加した。

大内家壁書 ・・・ 壁や門に貼って、家臣や領民への趣旨徹底を図ったことから壁書といわれている。       

甲州法度 ・・・ 武田信玄が定めたもので、軍事色が強い。

早雲寺殿二十一箇条 ・・・ 北条早雲が制定したといわれる。
              武士の心得などがしるされている。

結城家法度 ・・・ 塵芥集に次ぐ質と量をもつ。下総の結城氏の分国法。

六角氏式目 ・・・ 近江の六角氏が制定したもの。
          民事関係が多いことに特色がある。

 

農民を統制するために

このころの水田の多くは、山寄りの傾斜地に開かれいた。

大きな川の流れる広い平野に水田を開こうとしても、推理の確保、洪水の防除、排水の便などのことを考えると、技術的にも経費の面からも、困難が多かったのである。

しかし、領国の経済を豊かにし、強大な軍事力を保つためには、重要な収入源である農民からの年貢を増やす必要がある。

そのためには、どうしても新しい水田の開発を進めるとともに、その一方で治水対策を講じることが欠かせなかった。

こうして各地の大名は、莫大な費用をかけて土木工事を進めるようになった。

武田信玄が、甲府盆地を流れる釜無川沿岸に築かせた「信玄堤」は、その中でも特に名高い。

こうして農業の振興をはかる一方で、農民の統制にも工夫をこらした。

 

 

 ~検地と年貢の取り立て~

年貢を正確にきちんと取り立てるためには、だれがどのくらいの田畑をもっているかを、調べておかなければならない。

そのために大名の中には、厳しく検地をする者がいた。

そしてこの検地は、家臣に知行を与えるときのもとにもなった。

次は年貢の取り立てである。

これについては次のような話がある。

甲斐(山梨県)の武田信玄は、農民の家ごとに“棟別銭”という税金をかけた。

しかも、その取り立ては厳しかった。

「もし、百姓が他の村に移っても、その村まで行って棟別銭を取れ。家を売ったり、逃げ出したときでも、国中どこまでも追いかけていって、取り立てよ」と命令したという。

このようなことは、他の大名の領地でも同じであった。

そして、農民は大名やその家臣のために働かされるという姿が、次第に固まっていったのである。

 

 

産業を盛んにするために

領地の産業が盛んになれば、大名の収入もふえる。

武田信玄は信玄堤を築いて洪水を防ごうとしたが、これも農業を盛んにすめためのものであった。

そのほか、各地の大名は、盛んに開墾を進め、新しく田畑を開いた者には、年貢を数年間免除するなどの保護をした。

また、用水を通したり、新しい作物を栽培させたりするなどの方法もとった。

いうまでもなく、これらは年貢をふやし、大名を豊にするためのものであった。

鉱山を開発し、金・銀・銅などを盛んにとるようになったのも、このころのことである。

金・銀・銅などは、貨幣をつくるのに、なくてはならないものである。

もちろん、いざ戦いというときに、これらを使って必要な武器・物資を大量に買い入れることもできる。

したがって、大名たちにとっては、のどから手がでるほどほしいものであった。

それだけに各地の大名は、領地の鉱山を新しく開発することにつとめたのである。

石見(島根県)の大森銀山、但馬(兵庫県)の生野銀山などは、このころ開かれた鉱山として名高い

 

 

 

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