伊東彦三郎と猪苗代盛胤の墓
伊東彦三郎と猪苗代盛胤の墓
伊東氏の菩提寺、舘村真言宗岩上寺境内には累代の墓碑が見当たらない。
これは猪苗代氏の場合とも共通で同地にも最後の城主で伊東彦三郎と、一時は盟友であった盛胤の墓碑はささやなながら存するほかは、累代のものはない。
これは累代鎌倉に仕候して任務についたためではないか。
後年、村の古老たちが「横沢舘」のはなしを語り継いでいる。
これを聞いていると、伊東河内守を一人の人物としているが、系譜上には累代河内が多く、いずれを刺すのか分かりかねる。
おそらくは住民感情としは、三〇年ぶりで旧領民が迎えた元殿様伊東彦三郎が、横沢領境証文を所蔵して山公事を勝訴に逆転してくれたという温情に感じ「横沢館」をこの人に擬したという節もはなしの箇所に窺われる。
尚、横沢という姓は、猪苗代の釜井や熱塩加納村野辺沢などにある。
伊東氏と会津は密接であるので、関係があると思う。
麻野丹波は切支丹信徒で、会津で処刑された、と系譜寛永の頃に記されている。これも横沢氏の一族であった。
史跡 になっている平 盛胤(猪苗代盛胤)の墓
盛胤は猪苗代城主盛国の長子として生まれ、盛国隠居後14代城主となっていたが、天正年間(1573~1592)、父盛国がだててに内応したとき、盛胤は度々父をいさめたが、遂に罪をきせられ追い出された。
さらに、摺上原の戦いにも父の旗印を見て、盛胤は父に抗することはできぬと単独退き、葦名没落後は蒲生にも仕えず、寛永18年(1641)11月20日77才で内野に没した。
村では、文化2年(1805)から年々一夫の役を免除し、その墓を掃き荒穢しないようにしたとのことで、盛胤の遺徳が偲ばれる。
指定 昭和44年8月1日
所在地 猪苗代町大字八幡字水上5840
所有者 内野区
近いうちに、訪ねてみたいと思います。
摺上原の合戦後の猪苗代氏 ~伊達氏史料より~