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歴史ネタ帖

江戸城の明け渡し

江戸城の明け渡し

 東征軍本体が駿府に迫ったころ、将軍慶喜は上野寛永寺にこもって恭順の意を表し、徳川家の救済と家名の存続を嘆願していた。その慶喜を意を受け、さらに徳川陸軍総裁であった勝海舟の手紙をあずかって駿府に向かい、大総督府参謀の西郷隆盛と会見したのが山岡鉄太郎(鉄舟)である。

 当代一流の剣客と広く知られ、しかも肝のすわっていた鉄舟は、薩摩軍が警備する川崎(神奈川県)付近を通るとき、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督へ通る」と大声に唱え、薩摩軍を唖然とさせたという。
 その鉄舟は、西郷とあっても決しの思いと誠意をこめて、将軍慶喜の願いを伝えた。また、もし開戦になったらたくさんの罪のなき人々に不幸が訪れるとも説いた。さらに、西郷が示した「慶喜は備前藩(岡山県)にあずけること。江戸城を明け渡すこと。兵器や軍艦を渡すこと」などという条件にたいしても、「慶喜を外様である備前藩にあずけることだけは、承知できない」と一歩も退ぞかなかった。
 「もし立場が反対で、(西郷の君主である)島津公が他藩にあずけになったとき、あなたならどうするか。承知できるか」というのである。
 この言葉を聞いて西郷も、ついに、「自分が責任をもって、あなたのいうように取り計らおう」と鉄舟の言い分を認めたといわれている。
 やがて予定された江戸城総攻撃の日、3月15日が近づいた。先に山岡鉄舟と西郷との交渉があったとはいえ、もし戦いになったなら江戸市民の生命にかかわる。せっかく栄えてきた江戸の町も灰になってしまうだろう。陸軍総裁勝海舟の悩みは深かった。
 且つはついに決心し、3月13日と14日の二回にわたって、整合と正式に会談した。その一方、新政府に対して強い発言力をもっていたイギリス公使パークスに、「江戸城攻撃をやめさせてほしい」とたのみこんでもいた。
 パークスも、戦いが起こることによって、多くの外国人がそれに巻き込まれるのを心配していたので、「おとなしくしている慶喜を、さらに追伐するしようとするのは、人の道にはずれているのではないか」と強く申し入れた。
 こうして3月14日の会談で、「慶喜は、水戸に謹慎させる。そのこわり江戸城は攻撃しない」という話し合いがまとまった。
 これによって、江戸の町は戦いの被害をまぬがれ、討幕軍は4月11日、平和のうちに江戸入城をはたしたのであった。

​『スーパー日本史』より​

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