攘夷の巨頭・徳川斉昭
攘夷の巨頭・徳川斉昭
徳川斉昭(なりあき)は、徳川御三家の一つ、水戸藩の藩主として活躍した人物である。天下の副将軍と呼ばれるような家柄であっが、斉昭は強硬な攘夷論者としても知られていた。
斉昭の攘夷論のもとにあるのは、次のような考えであった。
「外国は、キリスト教を広めて、神国であるわが国の人民をたぶらかし、さらに貿易になって神国の富をかすめとって、人民の生活を苦しくする。そのうえで、武力によってわが国を奪い取ろうとしている。したがって、わが国に渡来する外国船はただに打ち払わなければならない。」
しかし、そのためには、わが国の武力をたかめることが大切である。だから、ぜいたくをいましめて費用をうかし、その分で武器をつくれ、とも斉昭はいう。さらに、「このようにして、われらの力のすべてをつくして外国にあたれば、必ず攘夷は成功する。また、これだけのことをすれば、あとは神がわが国を守ってくれるだろう。」というのが斉昭の攘夷論の基本だったのである。
けれども幕府は、この斉昭の考えを受け入れようとはしない。そればかりか、ペリーやハリスの力に押されて条約を結んでしまった。斉昭は、これが歯がゆくてならない。また、「このままでは、外国のために神国日本を奪いとられてしまうのではないか」とも心配した。
幕府が、各国と通商条約を結んだあと、そのいきさつを斉昭に説明しようとしたときも、斉昭は使いの者に会おうともしなかった。やっとのことであえた使いの者に対して、「おまえのいうことなど聞きたくもない。堀田正睦な(ほったまさよし)などは切腹してしまえ。ハリスは首をはねてしまえばよい」と息巻く有様であった。
このような斉昭の考えや態度は、このころの攘夷論者の大部分に共通していたものであった。彼らの条約を結んだ幕府を憎んだ。まして朝廷の許しを得ないで調印を進めたことは、その憎しみをいっそう強いものにした。そしてその憎しみは、しだいに「幕府を倒せ」という倒幕の動きともなっていったのである。
尊王攘夷の志士たち
幕末のころは、諸大名をはじめ、その家臣の中にも政治についての意見を進んで述べるものがふえたときであった。それまでは、天下の政治は幕府が行うものであり、ほかの者は意見を言わないのが普通でだったのだが、ペリー来航をきっかけに、老中・阿部正弘(福山藩主)が諸大名の意見を聞いたことなどがもとになって、発言する者がふえたのである。 と同時に、諸大名の家臣や各地の学者などが、互いに意見を交換したり、協力し合ったりするようになったのも、このころの特色であった。また、そのようになった直接のきっかけが、ペリー来航など外国からの圧力であっただけに、彼らの考えはほとんどが、「外国を打ち払え」という攘夷の考えであった。さらに、その攘夷のためには、幕府にまかせておいてはだめだ、もっと高い権威をもつもの、つまり天皇・朝廷の力をかりることが大切だとも考えるようになった。
こうして、尊王攘夷(尊攘)の考え方が広まり、尊攘の志士が活躍することになったのである。 このころ公卿たちの間にさかんに出入りした人としては、徳川斉昭の命をうけた水戸藩のひとたちをはじめ、梅田雲浜や梁川星巌、それに薩摩藩(鹿児島県)の西郷吉之助(隆盛)・福井藩(福井県)の橋本佐内などが知られている。
ただ、はじめのころの尊王攘夷論は、必ずしも「だから幕府を倒せ」という倒幕論と結びつくものではなかった。むしろ、天皇をおし立てて幕府の政治を改めさせ、その後に攘夷の目的を果たしていこうとするものが多かった。
攘夷の根拠
彼らが攘夷を唱え、さらに天皇親征を考えるようになったのは、次のような理由があった。
・国学の影響も受けながら、「日本は神国である」と信じている者がたちにとって、紅毛の夷狄(イテキ 外国人にたいいる蔑称)の存在は唾棄すべきものであった。
・しかもその夷狄はわが物顔に神州を横行し、支配階級である武士に対しても、優越的で横柄な態度を示している。これは武士の誇りを傷つけるものであった。それなのに、それにへつらう者が少なくないいう上京である。
・幕府は、その夷狄のいいなりになって開国し、勅許を得ないで条約を結んだ。この行いは、尊王を志す者たちにとって許し難いことであつた。
・開国以来、物価の上昇が急激であった。そしてその原因は、夷狄によって我が国の富が吸い上げられていることにあると考えられた。
志士たちの活動
真木和泉をささえ、あるいはこれと協同して攘夷親征を実現しようとするいわゆる「勤王の志士」は、このこ
ろ全国各地に現れ、互いに連絡を取り合いながら活発な行動を展開していた。
その中には、長州藩の桂小五郎、久坂玄瑞、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、土佐藩の武
市半平太(たけち はんぺいた)(瑞山 ずいざん)・坂本竜馬などの下級武士がいた。また神官・農民や町人
など、幅広い層からも、これに参加するものが少なくなかったのである。先に記した真木和泉は九州久留米の神
官の出身であったし、後に明治の財界で活躍する渋沢栄一は、武州(埼玉県)の地主の子でありながら、すすん
で攘夷運動に身を投じていた。