大老井伊直弼の決断
大老井伊直弼の決断
ただ通商条約案がまとまった後も、すぐには調印しようとしなかった。調印しなければ、条約を正式に結んだことにはならない。もちろん自由貿易をはじめることも、アメリカ公使が日本に来ることもできないわけである。
ハリスは「早く調印を・・・」と迫った。しかし幕府には、調印できない理由があった。その最も重要な理由は、「もし朝廷の許しを受けないで調印したら、国内が混乱してしまう」ということであった。
幕府は、通商条約の案をまとめるとき、諸大名の意見を聞いたが、「今となっては条約を結ぶのはやむをえませんが、調印の前には、朝廷の許しをうけることがどうしても必要だと思います」というのが大部分の大名の意見であった。
それに、このころには攘夷論がますます高まってきている。しかし攘夷論をとなえて開国に反対している人々も、条約調印を朝廷がゆるしたということになれば、少しは静かになるだろう。
このような考えがあって幕府は、何とかして朝廷の許しを受けたいと考えたのである。ところが朝廷からの返事は、「条約を結ぶことは、日本にとって望ましものとは思えない。諸大名の意見を聞いて改めて申し出なさい」という意味のものであった。条約調印には反対だというのである。
しかも、老中堀田正睦は、このころ、条約調印の問題のほかにも、将軍跡継ぎの問題を抱えて悩んでいた。
内外に難題をかかえた彼は、すっかり困ってしまった。その正睦に対してハリスはつぎのように攻めたてた。
大老・井伊直弼の決断 2
「あなたは二言目には朝廷が、朝廷がとおっしゃる。私は日本の中で最高の権力を持つものは幕府だと思うから、あなたと交渉してきたのだが、あなたのいうように朝廷の方が幕府より上なのなら、私はこれから京都へ行って朝廷と話し合うことにしよう。もしそうなれば、幕府は、やがてさびれてしまうが、それでもよいのだろうか」
この掘田正睦の悩みをすくうかのように、1858年4月23日、彦根藩(滋賀県)藩主・井伊直弼が大老の職につき、幕府の政治をすすめていくことになった。条約調印についての直弼の基本的な考え方は、「朝廷の許しを得ないうちは、調印すべきではない」というものであった。 その一方、「もし調印がおくれたり、または調印しないと決めたりしたときには、おそらく戦いがおこることだろう。そうなれば日本は、清とおなじように惨めな思いをさせられることになる。それを避けるためには、幕府の考えだけで調印するのもやむをえないだろう」という考えももっていた。もちろんその奥には、「幕府は、天下の政治をまかされたいるものである。それなのに、ここで弱腰を見せたら、幕府の力を疑われてしまうことになるのだろう。ここでは反対を押し切ってでも幕府の力の強さを示したほうがよい」
という考えがあったからなのに違いない。井伊直弼は、このような考えをもとに、さまざまな問題を解決してい
こうとした。
まず将軍の跡継ぎとしては、反対派をおさえて、徳川慶福(和歌山藩主)を立てることに成功した。通商条約については、朝廷の許しを受けないまま調印することにした。
もちろん、反対の声、避難の声は急に高まった。しかし、彼は、反対する者をとらえて厳しく罰し、幕府の力を示そうとした。