条約の締結
条約の締結
1854年(安政元年)1月、ペリーは再び日本にやってきた。もちろん、6ケ月前に渡した国書への幕府からの返事をもらうためである。
そして、前のときより3隻も多い、7隻の艦隊を率いたペリーの態度は、相変わらず強硬であった。「久里浜のあたりは、波が荒くて、船を止めておくのに適していない。それに国と国との話し合いは、その国の首都で行うのが世界の習わしである。ペリー提督は、ぜひ江戸か江戸の近くで会談したいと希望している」
部下の者にこのように言わせると、江戸湾の奥深く艦隊を進め、羽田布巾の測量までもするというありさまであった。さらに、「では、会談の場所を神奈川(いまの横浜)にしましょう」という幕府の返事を受け取っても、まだ強腰の態度を改めなかった。
国書への返事がのびのひになっていることを責め、「もし私たちの要求がかなえられないときには、戦いの用意をしなければならない。私たちの軍艦は、この近海に50隻が合図をもっている。20日もあれば合計100隻をここに集めることができるのだ」などと、おどしをかけたりしたのである。
会談がはじまってからも、ベリーの態度は変わらない。幕府側の代表林大学頭に対して、「日本の近海で漂流したものを、貴国では、まるで罪人でもあるかのように扱っている。これは人命にかかわることでもあり、捨てておくことはできない。もしこれからも難破船を救ってくれないというのなら、仇敵と申してもしかたがないであろう」 と決めつけた。さらに、「仇敵とあれば、戦争によって決着をつけるほかはない。少し前のことであるが、わが国は、隣国メキシコと戦い、その都を攻めとっている。」とまで強く言い張る有様であった。
※ペリー(1774-1858)
アメリカ海軍将官、寡黙で生真面目な人柄であったという。1854年に日本開国の使命を果たした後は、『日本遠征記』3巻の執筆刊行に専念した。
条約の締結 2
このような状態の中で、日米の会談は、2回・3回と続けられていった。そして3月3日、ついに日米和親条約の調印がおこなわれることになった。これが神奈川条約ともよばれるものであり、この条約によって日本は2百年以上続けてきた鎖国をやめ、開国をすることになったのである。
このように記してくると、幕府は、ペリーの強硬な態度におされ続け、無理やりに条約をむすばされたかのようにおもえるかもしれない。たしかに、そのことを忘れるわけにはいかないだろう。しかし、幕府の役人は、ベリーにおさえられてばかりいたわけではない。無能だったのでもない。
実はこのころ日本の国内には攘夷論がたかまっていた。もちろん、その人々は、「ベリーなど追い払ってしまえ」と主張する。ところが、ペリーはこれまでにも記したように強硬であり、しかも武力ではかないそうにもな
い。一方、ヨーロッパ文明の優秀さや、その文明にやぶれた清の様子も伝えられてきている。
幕府の役人は、このような圧力を四方から受けながら、ベリーに対してもいうべきことははっきりいった。国内
にみなぎる攘夷論におしつぶされるようなこともなく、開国へ開国へと導くようにつとめた。
もし失敗すれば、日本が外国に占領されてしまうかもしれない。国内゛か2つに分かれて戦いあうことになる
かもしれない。そのような心配に悩まされながらも、日本にとって最もよい道を選ぼうと努力したのである。