道鏡を退けた神の声
道鏡を退けた神の声
藤原仲麻呂が死んだあと、僧の道鏡が朝廷の実力者となった。
かねて道鏡を信頼していた孝謙太上天皇は、淳仁天皇を淡路島へ追放したあと、再び暗いについて称徳天皇となり、道鏡を左大禅師に、つづいて、太政大臣禅師という最高位の官職につけた。さらに天皇は、道鏡にたいして、法王の位も授けている。このくらいを授けることになよって、道鏡は天皇とおなじように待遇されるようになった。
このように道鏡が信頼されるきっかけになったのは、称徳天皇が病に苦しんでいたとき、まじないの力でそれを治したからであった。権力を握った道鏡は、僧としてあたりまえのことであったが、寺をつくり、僧の勢いを保つことに特に力を入れた。東大寺に対抗して西大寺をつくったり、高さ14センチ余りの百万塔とよばれる小さな木製の塔をつくり、一つひとつに経文一巻ずつをおさめて寺にくばったりしたのも、その例である。こうして、道鏡が法王になって3年余りがたったとき、世の人を驚かす大事件がおこった。
769年(神護景雲3)5月のこと、太宰主神という職にあった習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)という者が、九州からはるばる都にのほり、次のように天皇に申し出たのである。
「つつしんで申し上げます。実は、宇佐八幡大神のおっしゃるには、「法王道鏡を天皇の位につければ、天下は平和に、人民は安らかにおさまるだろう」ということでございます。大神のおっしゃることを、ただちに実現なさるとよろしいかとぞんじます。」実は、この習宣阿曾麻呂という者は、道鏡の弟弓削御清浄人(ゆげのみきよのきよひと)の家来であった。だから、宇佐八幡大神の神託というのも、道鏡の弟と阿曾麻呂とがしめしあわせ、つくりあげた話だったかもしれない。
道鏡を退けた神の声 2
道鏡は、神託の話を聞いて、たいへん喜んだ。「しめた、これでわしが天皇になれる」と、とんとんびょうしに出世していく自分の幸運に、おどりださんばかりのよろこびようであった。しかし、称徳天皇の気持ちは複雑であった。心から信頼している道鏡が天皇の位につくことについては、正面から反対しようという気はおきない。けれども臣下の者を天皇にするのは、これまでに例がない。とうていゆるされないだろう・・・というのが、天皇の悩みだったにちがいない。
その悩みにこたえるかのうよに、ある夜、天皇の夢枕に、八幡大神の使いがあらわれ、
「わが神の正しい言葉をつたえたいので、おそばにつかえている法均(和気広虫 わけのひろむし)を宇佐によこしていただきたい」と告げた。
天皇は、法均の病気を理由に、弟の和気清麻呂をつかわすことにしたのだが、この清麻呂の出発にあたって、道鏡は、「宇佐の大神は、おそらく私を天皇にせよと、はっきり告げられるにちがいない。そのお告げをしっかり聞き、きちんと報告したら、大臣にしてやろう」といったという。
ところが、次のように清麻呂という者もいた。「道鏡を天皇にするなど、とんでもないことだ。もし、そんなことになったら、私は朝廷に仕えるのをやめる。子供をつれて、山の中にはいってしまうつもりだ」つまり、道鏡に反対する者も、決して少なくはなかったのである。さて、都を出た清麻呂は、宇佐につくと、早速、神の前にひざまずいて、「神よ。どうぞ正しいお告げをきかせてください」と祈った。
このあとのいきさつは、次のように記録されている。はじねのお告げは、「道鏡を天皇にせよ」であった。このお告げに対して、清麻呂は、さらに祈った。「いまのお告げは、国家にとって、まことに重要なことです。私には、どうしてもお告げのようにすることがよいては思えません。もし、本当だとおっしゃるのなら、私の前に奇跡をお見せください」この祈りが通じたのか、八幡大神は、たちまちその姿をあらわした。背の高さが10メートルあまり、全身が満月のようにかがやいていたという。そして、神は身動きもできないでひれふしている清麻呂に、静かに告げるのであった。
「我が国は、昔から君臣の区別がはっきりしている。道鏡ごとき者が天皇になるとは、神である私が許さない。おまえは、ただちに都に帰り、私の言葉を天皇に報告せよ。なおおまえはきっと、道鏡の恨みをかうだろう。しかし、心配することはない。必ず私が守ってあげよう」
道鏡を退けた神の声 3
神のお告げが、どうして前とあとで、すっかり変わってしまったのか、記録には何も書かれていない。ただ、いまの多くの学者は、「はじめのお告げは、宇佐八幡宮の神主たちが相談し、巫女を通して清麻呂に伝えたものだろう。それに対してあとのお告げは、清麻呂自身が神がかりしたときのものだ。神かがりした清麻呂は、ふだん自分が考え、願っていることを、あたかも神のお告げであるかのように耳にしたのではないか」と説明している。清麻呂は、宇佐八幡大神のお告げをそのまま天皇に報告した。そのため、道鏡の願は実現しなかった。
一方、道鏡の怒りを受けた清麻呂は、名も穢麻呂と変えられて大隅(鹿児島県)に、姉の広虫は、“狭虫(さむし)”とされて備後(広島県)へ追放されてしまった。しかし、道鏡の権力も、この後、長くは続かなかった。
770年、称徳天皇がなくなるとともに、たちまちその地位を奪われ、下野国(栃木県)の薬師寺に追い払われたのである。
こうして、道鏡についての事件はかたづいたが、これにつづいて、早速、称徳天皇の次に、だれを天皇にするかの問題がおこった。そして、ここでも、有力な貴族たちの間で、「自分に有利な天皇を・・・・」というたくらみがめぐらされた。そのたくらみに成功したのが、藤原百川という人物であった。
百川は、藤原四家のうち、式家宇合の子であったが、多くの貴族が候補にしていた皇族(天武天皇の孫)を退け、天智天皇の孫にあたる白壁王を、光仁天皇とした。さらに、光仁天皇の次には、桓武天皇を位につけることにも努力した。いずれも、自分の勢力を強めるためにしたのであるが、のちに桓武天皇は、「もし百川がいなかったなら、自分はとても天皇になどなれなかったとう」といって、百川に感謝したという。百川のたくらみは、みごとに成功したのである。