一人芝居の大政奉還
一人芝居の大政奉還
慶応3年(1867)10月3日、京都二条城に土佐の後藤象二郎と福岡孝悌(たかちか)の姿があった。2人は老中首座の板倉勝静に、土佐藩主山内容堂の建白書を手渡した。
将軍徳川慶喜は、よくできていると感心してこれを読んだ。ただし内容にとくに新しさはなかった。ここで慶喜は、王政復古の八カ条を即座に江戸に送るべきであった。ところが慶喜は江戸に送らず、越前の松平春嶽に相談した。
「有終の美を飾る好機かと」
と春嶽は反対はしなかった。優柔不断な慶喜のことだ、即座に政権を返上するなどありえないという判断も働いた。
その返事を聞いて、慶喜は一人黙考した。
幕府が政権を返上すれば、朝廷は政治をとることになる。外交、防衛、内政、幕府の力を借りずしてなに一つできるはずはない。とすればとうなるか。もう一度、慶喜に政権が戻ってくるに違いない。今度こそ、すべての人間すら委任された大将軍になる。
小栗上野介、勝海舟、顧問のフランス公使ロッシュ・・・慶喜は誰にも相談せずに単独でことを進めた。慶喜の回想録『今夢会筆記 せきむかいひつき』に、この時の心境が記述されている。
「山内の建白書は上院、下院の制を設けるとあったので、これなら公論に決することができると思い、勇気と自信をもって決断した。日本の行く末は西洋のように、郡県制度になろうと歴然と考えていた」
慶喜の回想は本当だろうかと、耳を疑いたくなる。なぜなら疑問を抱いていないことである。薩摩、長州はどう反応するか、情報収集した形跡もない。建白書に薩摩の家老小松帯刀が加わっていたことも慶喜の判断を狂わせた。
薩摩も承知していると判断した。話の裏をとらなかった慶喜の浅智恵が、大失敗を犯すことになる。
慶喜は10月13日、二条城に在京40藩の重臣を集め、大政奉還を述べ、翌日、政権を朝廷に返上した。
朝廷はいささかあわてた。慶喜の思惑通り、国家の大事および外交案件は慶喜に委任する宗を決めた。
ここまでは慶喜のシナリオ通りだった。
「すべて余のもくろみとおりである。」
慶喜はかたわらの京都守護職松平容保をみやった。
小栗上野介も勝海舟も来ていない。幕府の知恵者を欠いたなかで、幕府の一大事がきまってしまったのだ。
後藤象二郎から第一報が入った瞬間、龍馬は感極まって目頭を葺いた。すべては龍馬が考えた政権交代のシナリオだと錯覚した。このとき、龍馬の脳裏から西郷の影が消えていた。
心から長閑くもあるか
野辺はなほ雪げながらの春風ぞふく
龍馬は日本の前途の輝かしいものを感じ、こう詠んだ。
幕府も薩長も手を組み、丸く治めて新制日本を創造する。
それはまさしく理想であったがそうならないところに、人間の果てしない覇権の争いがあった。
参考図書 星亮一著『幕臣たちの誤算』より