幕府の誤算 ~鳥羽伏見の戦い~
幕府の誤算 ~鳥羽伏見の戦い~
誤算 その1
鳥羽伏見の戦いは、将軍徳川慶喜の優柔不断な性格から起こった。慶喜は混乱した事態を収拾すべく大政を朝廷に返上した。これが幕府の誤算の始まりである。薩摩の西郷隆盛は、一気にクーデターを断行した。御所を軍隊で固め、天皇と公家を味方の陣営に引き入れ、慶喜を追放した。怒った幕府兵と会津兵は即刻、戦闘を叫んだ。軍艦で大坂に向ったバンフ海軍の榎本武揚も、慶喜が決断すれば幕府は勝と叫んだ。
誤算 その2
慶喜はためらった「われに策あり」と、京都を離れ大坂に移った。これもひどい誤算だった。京都に居座ればいいものを、大坂に退いてしまったので、西郷は一段と優勢な 立場にたち、幕府勢を追い詰めて戦端を開かせた。それが鳥羽伏見の戦いであった。
幕府の方が兵力は多かったが、意外にも苦戦を強いられ、各地で敗れた。慶喜は「たとえ千騎戦没し一騎となるとも退くべからず。皆の者、死を決して戦うべし」と珍しく声涙ともに下る演説をした。将兵は奮起して戦場に向ったが、この夜、将兵が城に戻ると慶喜の姿がない。慶喜はこともあろうに、幕府艦隊の旗艦「開陽丸」に乗って江戸に逃げ帰った。艦長の榎本は、おいてけばりを食っていた。
誤算 その3
江戸城の幕閣たちは、戦争が起こったことを知らずにいた。京都、大坂が風雲急を告げていたこは知っていた。このため兵も軍艦も送っている。しかし、江戸に黙って戦争を始めるとは、思っていなかった。開戦の連絡は江戸になかった。戦争が始まったのは、慶応4年(1686)の正月3日である。
江戸の閣僚たちが知ったのは、なんと正月11日である。開戦から8日経っていた。天下分け目の戦いの重大情報が、一週間近くも放置されていたことになる。幕府はときの日本政府である。日本政府の危機管理がまったく機能していなかつた。
慶喜が軍艦で品川に戻ったというので、勝海舟は品川の浜御殿に迎えに出た。
ところが慶喜が真っ青な顔をして黙っている。傍らに会津藩主、桑名藩主がいたが、詳細を聞いてもお互い、目を合わせるだけである。どうしたことかと老中首座の板倉勝静(かつきよ)に問いた。板倉がようやくことの顛末を語った。
小栗上野介がしったのもこの日、11日である。三井の番頭がきて「3日から戦がはじまった」と告げた。大坂と江戸の間は早飛脚で、3日のはずである。開戦してすぐに急使が江戸に向えば、すくなくとも6日には一報が入るのてはないか。
小栗は茫然自失だった。第一報があってからの行動も緩慢であった。
普通の感覚でいえば、すぐ江戸城に幕臣があつめられるはずである。ところが全体の大評議がはじまったのは、それから2日後の13日の朝であった。
参考図書
星亮一著『幕臣たちの誤算 ~彼らはなぜ維新を実現できなかったか~』