藤原氏の進出
藤原氏の進出
奈良時代のはじめ、政界にめざましく進出してきたのは、藤原不比等とその子孫たちであった。不比等は、大化の改新で手柄のあった中臣(藤原)鎌足の子である。とはいっても藤原氏は、もともと朝廷の中での特別な有力者であったというのではない。どちらかといえば「低い身分のもの」とみなされながらも、鎌足以来、急に脚光を浴びた家柄なのである。
しかし優れた才能をもつた不比等は、律令の制定に力を注ぎ、それをもとにした政治をすすめるなど、朝廷の中ではなくてはならない人物と目されるようになっていった。このような不比等の立身の状態は、皇族や他の貴族たちにとって、決して快いものではなかった。しかも不比等は、2人の娘をそれぞれ文武天皇の后(宮子)、首皇子(後の聖武天皇)の后(光明子)にし、天皇との結びつきを深めている。不比等の死後も、藤原一族の勢いは増すばかりであった。
光明氏が生んだ基親王は、生後わずか一か月で皇太子に立てられたし、不比等の四人のこども、すなわち武智麻呂・房前・宇合・麻呂は、それぞれ朝廷の高官に任命されるという有様だったのである。「もともと身分の低い家柄であったくせに、藤原氏は、政権を独占しようとしているのではないか」このような警戒心が、皇族や貴族の間に広まっていったのは無理もなかろう。その中心になった一人が、長屋王であった。
長屋王の変と藤原氏
長屋王の父は、天武天皇の長子であり壬申の乱の際にも活躍した高市皇子である。母は、元明天皇の姉であるといわれている。また王自身も、元明天皇の娘・吉備内親王を正妻にもち、ほかに藤原不比等の娘を妻にしていた。
天武天皇の孫であり、婚姻関係でも天皇との結びつきが深かった長屋王は、早くから高位についていた。長屋王の邸宅跡からは「長屋王親王」と記された木簡が出土している。これは王が、その当時に皇位継承者としての待遇をうけていたことを示すものなのかもしれない。このような長屋王にとって、光明子を首皇子(聖武天皇)の后にするなど、天皇とのつながりを深めている藤原氏の動向は、苦苦しいものであった。
一方、藤原氏も、この長屋王への注目を怠らなかった。というのは長屋王は、貴族にとって第一の教養と目された漢詩をよくするとともに、その身分と莫大な収入をもとに、当時の文化人の中心としての尊敬を受けていた。
しかもその邸には、なにかというと多くの貴族が集まって詩会を催すなど、上流階級のサロン化していたからである。そのサロンは、いつ、何がきっかけになって藤原氏打倒の謀略の場となるかもしれない。藤原氏の危惧もそこにあった。
こういう中で729年(天平1)2月、ついに事件が起こった。それは漆部君足・中臣東人の2人が、ひそかに中納言の要職にあった藤原武智麻呂の邸を訪れ、「長屋王、そかに左道を学びて、国家を傾けんと欲す」と密告したことに端を発している。左道とは、あやしい呪術のこと。また国家とは、この場合天皇を指していると考えてよい。つまり長屋王は、呪術によって天皇の命を狙っているというのである。
しかも彼らは、「前年、藤原氏があつい期待をこめた基親王が、わずか1歳でなくなられたが、これも長屋王の呪いによるものであったらしい」というのである。その夜ただちに、武智麻呂の弟・宇合を総指揮官とする兵士たちが、長屋王の邸を囲んだ。おそらく王は、その理不尽な動きに対して強く抗議をしたに違いない。しかし、それは受け入れられなかった。王は、ついに自殺に追い込まれたのである。
この事件のあと、不比等の長男、陸奥麻呂は大納言に昇任、四男の麻呂も従三位にすすんだ。こうして、先に従三位になっていた二男房前、三男宇合を加えて、藤原四兄弟はいずれも三位以上の地位に登ったのである。しかも同年八月には、年号を天平と改めるとともに、光明子を皇后に昇格させてもいる。臣下の身分の者が皇后になるというのは、これが初めてのことであった。もし長屋王がいたら、とうてい実現できなかったことかもしれない。
世の人々が、「長屋王の変は、藤原一族の陰謀であったに違いない」と噂しあったのも無利のないことであった。