室町末期の横沢氏(猪苗代湖の南側の土地を領有)
室町末期の横沢氏(猪苗代湖の南側の土地を領有)
伊東河内については不明や疑義の点が多く、至徳の頃(北朝方にてしようされた年号、1384年~1387年まで)田面の寺にて自滅して失いたり、といい、そののち大永三年(1523年)には会津葦名盛舜により横沢殿として領界証文を賜わり天文十五年には、崎川の薬師堂再建のことが旧事雑考に明記され、天正十七年伊達政宗会津侵攻前年、猪苗代盛種横沢に遁る、とも書かれている。
中地大仏の栞にも「横沢氏は其の後も命目を伝えて天正に至っている。横沢の荒井に円墳状の上に杉の大木(銀杏は誤りであろう)があり、一基の宝筺印塔があるが、これは横沢氏の墓標であろう、とある。(始祖か)
なお、古い館八景という中に「五輪塚夜雨」として
鎧太刀佩きて埋もれし奥都城(おくつき)の
五輪の塚に夜の雨降る
とあり、古人も舘の武将伊東河内守の面影を、伊東家所蔵の画像に偲んでその威厳をこの塚に鮮明に意識したようである。
この塚に伝説があり、昔、武将のなきがらを唐金の舟に入棺して、北面にしてこの塚に埋葬したところ、一夜にして湖水の方に動きだした。それで今度は、南に向きを変えて埋葬しなおしたところ、やっと鎮まったといい、この塚を「舟型の坦」ともいう。
五輪というが実は宝筺印塔で、この火輪に昔は人骨が納めてあったといい、これは標本の杉が次第に大木になり、根が張って塔が傾き、台風のたびに塔が転落し、人骨がうしなわれたという。
この塔は岩崎博士によれば、室町末期の作との由である。この大杉も体大その頃植えたものであろう、という。室町末期に横沢氏の不退転の構がみられることは、前期の通りである。昭和十八年に舟材に供木のため伐採した岩上神社前の大杉の年輪は四五〇であった。おそらく舘の本城守護神の稲荷神社の神木の大杉も同じ頃のものであろう。
※至徳から大永までの136年余の間の開きがあります。そのときに、なにかあったのでしょう。
南北朝の時に、自滅したが、大永の頃には誰か、縁筋の人が家を再興することが出来て、横沢氏を名のったのか。
猪苗代湖南の横沢館(猪苗代盛胤が父子争いの時いたところ)とは
鎌倉時代、文治五年(一一八九)右大将源頼朝奥州征伐のとき工藤祐経軍功により安積(および安達の一部)を賜る。しかし、自分は伊豆が本領なのでこれを次子祐長に与える。
これが安積氏の祖である。史実によると、佐長が安積を賜ったのは、建保元年(一二一三)という。
三代祐宗の弟祐行が猪苗代湖南・湖西・滝沢の頂上迄六二〇〇石余をもって分派し、名を横沢二郎右金吾(うこんご)と改め、いまの舘村の他に二二〇〇坪の侍屋敷、役一〇〇〇坪の東舘、のちに蘆名氏招待のときの花見御殿茶臼館を東方山上に築くなど、現存する意向かいに当時の権勢の程を偲ばせている。これは湖の東南西随一の規模である。
伊藤氏系譜をみると、祐行の孫祐規の代に「横沢之内舘城修補」とあり、なお明応七年(一四九八)横沢城中守護神に伏見稲荷神霊を勧請し、文亀三年(一五〇三)城鎮に岩上山上より巌上(いわのかみ)を下宮に遷宮し、この年、舘の鬼門神に横沢堂林より風神を遷して御札宮(おふだぐう)と崇祀するなど、この頃にようやく横沢氏の体制固めがみえるようである。
南北朝には伊東横沢下野尚広は南帝に属して安堵を賜り、恩賞に感じ横沢城いぬいの丘上に小倉宮を奉祀した、と系譜にみえる。
やがて、伊東氏一族は南北に別れ、または初め南朝に属し、すぐに北朝足利方にくみするなど、一族の融合めまぐるしく、横沢河内守については「至徳の頃(一三八四~)領内田面村の寺にて自滅して失たり、田面村興泉寺に伊東河内の位牌あり、横沢前右金吾興泉大居士という」とある。
また、至徳元年(一三八四)、横沢地頭伊東右衛門尉について、亡父興泉居士菩提のために興泉寺を建立し、岩上寺住僧臨済宗雪岑和尚が開山した。
その後、永正七年(一五一〇)大寺慧日寺四十五世弘盛住持が入寺して真言宗に改宗した。とあり、旧記に「館の岩上寺の一郭ならんか」とみえるが、寺跡はわからない、という。更に「滝沢峠以東の湖西・湖南はすべて伊東一族の所領となってから、館の興泉寺は西田面に移ったのではないか」という。
応永十一年(一四〇四)七月の連署に、湖南地方に中地沙弥性久があって、横沢氏がみえない。応永年間には湖南地方でも横沢より中地へ勢力の交代があったらしく、館の伊東氏系譜書に「南帝に属し」とあるのが何よりの証拠であろう。
大永三年(一五二三)には横沢河内守持行が会津葦名氏一五代盛舜より横沢領境証書を賜っている。松藩捜古巻二、舟津山界証書、里正滝田太兵衛所蔵である。
その二三年後の天文十五年(一五四六)横沢藤六郎舜行、黒川(若松)に出仕の砌、湖上崎川の沖合にて突然暴風にあい、一心に崎川薬師を祈って難破を免れる。この霊験に感じ、藤六同薬師堂を再建した。と『旧事雑考』にある。この人弟藤次郎祐政が麻野(安佐野)に分派して麻野丹波守となり、藤六の子が横沢彦三郎広行である、と伊藤氏系譜にいう。
興泉寺縁起と横沢領境証文(猪苗代父子争いのときの舘主の話し)
新編会津風土記に原組端村西田面の条に興泉寺縁起を載せている。
伊東氏系譜には、
「横沢から田面に分派した田面右金吾守右衛門祐永の子宗長が、亡父の供養に興泉寺を創した」
とある。舘の古老によれば「田面の興泉寺に伊東河内守の位碑と五輪の墓がある」という。
住職によれば「当寺は湖南横沢の殿様が建てたということはきいていた。五輪塔は先年まであったが、耕地整理工事の際埋められたのか、いまはみえない。位碑も見当たらない」とのことであった。
至徳の頃、領内田面の寺で自滅したという伊東横沢河内が、実はその後も命脈を連綿とつないで、近郷から「横沢殿」と敬称され、公記にも橙事績が載せられている。
応永十一年(一四〇四)七月の連署に、湖南地方に中地沙弥性久があって、横沢氏がみえない。
この時代の情勢について略記すれば、関東管領足利満兼弟満直・満貞を稲村(須賀川)及び篠川(安積町笹川)に遣わして、奥州を鎮撫せしめたのは応永六年(一三九九)であり、連署はその五年後で、当時笹川御所の権勢下にあってすでに伊東氏の一族の中でも南朝方と北朝方とに分かれ分かれになり、応永年間には湖南地方でも横澤より中地へ勢力の交代があったらしく、舘の伊東氏系譜書に「南帝に属し」とあるのが何よりの証拠であろう、という。
応永十一年の一一九年後の大永三年(一五二三)には横沢河内守持行が会津葦名氏一五代盛舜より横沢領境証文を賜っている。松藩捜古巻二、舟津山界証書、里正滝田太兵衛所蔵(縦一尺二寸、横二尺二寸余)
盛舜
ふなつふくらの境之事おにぬまのたて石より嶺をのぼりにやとうはたいしくらかみねとう屋の入の嶺しき山の西の麓までそれより峯へ上りひの岡中の峯よりやちハ川まで直に河より東かち内は河きりさかひのくねまでその外すはの西、東飯の森の南ふもと迄境のくねひ山沢は河かきりに横沢へ相属し候、然而柳の内南は河きりに中地へ相属候、かのかいの地ニさち川内原の関横沢へ於末代相属候、仍山の草木の事はたかいに取へく候、組内林杉林舟木はたかひに其届可有之候、為後日一書如件
追而 さち川の事前々のことくたるへし
大永三癸未四月廿三日
金上但馬守 平田
盛貞(花押) 輔範(花押)
西梅枝 塩田
盛枝(花押) 輔光(花押)
坏 軒 松本伊豆守
一禿(花押) 輔次(花押)
松本図書助 石田石見守
宗輔(花押) 盛範(花押)
富田左近将監 同尾張守
実持(花押) 光輔(花押)
横沢殿
以上が、大永三年蘆名盛舜の横沢領境証文である。後世、横沢河内守を近郷で「横沢殿」と尊称するのは、この証文の宛名によるものの如くである。
猪苗代湖船行の目標、神木の大杉
岩上神社は、文亀三年(一五〇三)に岩上山上から横沢城(いまの舘村)の城鎮として下の宮に遷宮したのであり、同年に城の鬼門神として横沢の堂林から御札宮を、いまの新月形小学校庭に遷宮し「あらしよけの神」として崇敬した。
この御札神社神木の大杉は、二本松藩主丹羽公巡視の折、目にとめられ、領内に稀れなる大杉足りと云われ、「北辰明」(ほくしんみょう)という神明号をつけ幣皁料を寄進したと伝える。
この杉は猪苗代湖上船行の舟乗が、遠く戸ノ口方面からも望見され、船行の目標にしたという。
惜しいかなこの大杉明神は、こころない神職により、明治中期頃強行伐採されてしまった。
これにも伝説がある。
俗に千年の大杉と村人はいうが、実はこれも文亀のむかしの一連の標木ではなかったろうか、と思う。
なお、五輪塚の塔の石質は、福良の役場前の燈篭と似ているという。
これが湖西の田面から運ばれたものであろうとわれてみれば、関連して横沢氏の田面進出は会津葦名氏の東部防衛の布石であったともみられよう。
※ 神木を切る神主は、その後どうなったのだろうか
尋ねてみましょうか
縄文杉のようなものが、明治初期までに各地に残っていたんでしょう