王政復古の大号令
王政復古の大号令
徳川慶喜による大政奉還、その一方では薩摩・長州藩らを中心とする倒幕の準備、という情勢の中で、1867年終わりころの京都・大坂は騒然とした空気につつまれていた。
その京都・大坂をめざして、各藩の兵が続々とあつまってきた。京都守護職や所司代の率いる会津藩・桑名藩の藩兵がいた。また江戸から、「幕府の一大事だ」「将軍を守れ」と、あわててかけつけてくる武士もいた。その数は、あわせて1万をこえるほどであったという。
薩摩藩・長州藩らの討幕派が、これに対抗して兵をあつめたことはいうまでもない。そして、彼らがめざしたのは京都であつた。
こうして、今にも戦いがはじまるかと思われるような情勢の中で、12月9日、朝廷では、おもだった公卿・大名などを集めて重要な会議が2回にわたって開かれた。その中心になって会議をすすめたのは、大久保一蔵(利通)・岩倉具視らである。
これらの会議で大久保や岩倉がねらったのは、
・王政復古の宣言をするとともに、これからの政治の仕組みを決める
・徳川慶喜に対して、大政奉還だけでなく、内大臣の官位やその領地も返上させるようにする。
という2つのことであった。このことさえはっきりさせれば、江戸幕府や将軍の力をおさえ、締め出す考えたからである。
もちろんこれは、先に記したような列藩会議をつくるという案とはちがっている。将軍の官位や領地を返上させるというのも、多くの列席者にとって以外なことであった。それだけに激しい議論がやりとりされたという。
中には、「このようなことを考えたのは、ほんの一部の者にちがいない。それらの者は、天皇が幼いのをよいことにして勝手に事をはこび、権力を自分の手におさめようとしているのではないか」という意見を強い口調でのべるものもいた。
しかし、それらの意見は、やがて大久保や岩倉の反論の前におさえられていった。そして、王政復古のことも、官位や領地の返上の決定された。大久保や岩倉の計画は見事に成功したのである。
とはいっても、まだ安心してはいられなかった。徳川将軍家を支持するものたちの力は、このときでも決して軽くみてはならなかったし、事実、かれらは新しい政治の仕組みの中に、何とかして慶喜をおしこもうと努力したからである。また、慶喜がきびしい処分を受けないようにと、とりなす者もすくなくなかった。
「これでは困る。何とかして将軍家を徹底的にいためつけることはできないだろうか」こういう考えが、薩摩藩・長州藩方に起こり始めた。「早くなんときしなければ、、、」というあせりも出てきた。このとき、「良い知恵がある」と口を出したのが、西郷隆盛である。
彼は、
「そのためには、幕府方が戦いをしかけてくるようにすればよい。そうすれば、将軍家を朝敵にし、さらに武力によって打ち倒すことができる」という。
さらに、薩摩藩の藩士に命じて、江戸の近くで騒ぎを起こさせ、幕府方が戦いをしかけてくる切っ掛けをつくるようにもしむけた。
こうして、いわゆる戊辰戦争が起こり、江戸幕府や徳川将軍の勢力が一掃されることになる。
西郷隆盛・・・策略家だね。上野の公園に銅像があるけど、その後ろには彰義隊の墓があるのも
意味深です
大久保利通・・・最後は暗殺されてしまいましたが、日本の近代化に一役かってはいたかな
岩倉具視・・・このひと?
錦旗をつくろうと気が付いたのはだれかな?
まだ、まだ、勉強たりません。
いろいろな人の思惑が絡み螺旋になり、渦となり、歴史を動かしていく、人間一人の力では抗することもできない。しかし、一人一人の活動は無駄にはならないよね。
参考図書『スーパー日本史』